のん木ギャラリ−

Nonki Gallery (non profit gallery)  

 
   

このギャラリ−は、2002年まで名古屋市内にあった小さな非営利のギャラリ−です。

  
     当時、作品を発表されたartistの方たちを紹介します( 推薦・批評文 山田正明 )   



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mafy@m2.cty-net.ne.jp



作品展の履歴


二村 柚夕子

「森に住む生きものたち」

森の中へ入ってゆくと
自分がとても小さな存在に見えてきます
私は
人間.も森も地球で呼吸する
同じ自然の一部だと考えています
森の中では
いろいろな沢山の生きものたちと
出逢うことができます
種や葉っぱたち
木の実や根っこたち
それら森に住む小さな生きものたちを
私たち人間と深い関係にある
存在として
考え直してみたいと思います

                   1997.12.1 二村 柚夕子


                            「森に住む生きものたち」
                      
最近、地球の温暖化による様々な悪影響が人間やその他の生きものたちの存在を危うくしている現実を、マスコミなどの情報を通して私たちは知り始めたところです。
“地球にやさしい”とか“自然にやさしい”というような人間のミーイズム的美辞麗句が流布される中で、人間を抜きにした地球とか自然って、一体何なのだろうかと人間の思い上がりに考え込まされてしまいます。

そんな折り、今回の二村さんの作品は、一つの提案を私たちに明示してくれます。私たちが森や林の中で簡単に見つけることの出来るものたち、そして、その存在を意識しないまま土足で踏みつけてしまうものたち、そのような森に住む小さな生きものたちを、二村さんは、人間と同じ地球に住むいのちあるものとしてとても大切に考えているようです。
人間としての五感を研ぎ澄ますことの大切さ、かれらと交流したり、在りのままに向き合ったり、認め合うことによって、私たち人間とかれらが互いに協力しあうことの大切さ、又、地球のことを真剣に考え直そうという提案と自然への感謝と思いの強さを、これらの作品のタイトルからも伺い知ることができます。
森に住む生きものたちの側に意識的に立つことによって、この芸術家は、かれらこそが私たち人間を生かしめているのだということを、身近な生きものたちを題材にした作品によってメッセージしているのではないでしょうか。 (評:ヤマダ)


カスヤ保治

「共鳴する」アートへ

東区の制作室へAM11:30着
窓を開け、湯を沸かし、ペーパーフィルターでコーヒーを入れます。
おもむろにクラシックレコードを選択し、針を下ろし、
私の一日が始まります。
ここ10年で、自分だけのノルマとして
10回の個展、10回のグループ展、10回のコンペ、
1000枚の作品の創作を達成し、今は肩の力も抜け、
音楽三昧の空間の中で、小品のみを創っています。
デジタルなるものがキライです。
だからこそ、もっとプリミティヴな作業としての
レコードを聴くことや、絵の具を溶き、筆で描くことが
重要ではないかと思うのです。
「∞」「自然」「音楽」が自分の作品を創るうえでの核となっています。
のん木ギャラリーでの今回の個展では、
「楽器」をモチーフに最小の色と形で「私という精神」を
表現したいと思いました。
この小さな作品のいずれかが、いまここで見ておられる方の
感性と共鳴できるならば、とても幸せに思います。

1998・1・5   創作美術   カスヤ保治


「共鳴する」アートへ

  
「アート」とか「アーティスト」という言葉を、私たちが日常の中で今日のようにひんぱんに見聞きすることは、日本において、かつてなかったことだと思います。芸術の果たす役割や重要性について日頃考えている私には、「アート」という言葉の意味合いが、余りにも曖昧なままで通用している点が気にかかって
います。
メディアに登場しているようないわゆるアーティスト達と、商業主義ではないところで、「人間とは何か」というような真剣な哲学の表現を試みているアーティスト達とでは、その質が違っているように思います。
その辺りは、みなさんと共に考えていきたい問題です。
さて、今回のカスヤさんの作品は、私たちにひとつの問いかけをしています。身近な「楽器」を題材にして“共鳴する”ということを私たちにわかりやすく表現しているように見えますが、実は、もっと深い意味合いでの「人間の精神とこころの相関性」「人工物と自然物の関係性」「肉体と宇宙のリズムとの関連性」など、
私たちが自分の意志ではどうすることもできないような、生命の音やリズムの共鳴というものを表現していると思われます。
そして「あなたは自分のリズムに気づいていますか」「あなたの音色をどうとらえていますか」「あなたの何が共鳴していますか」と、問いかけているようです。
また、作品の前に立つと、自分が弾き手になったような錯覚をおぼえます。
そして私たちが自分の内にある声なき音色に耳を傾けるよい機会をこの芸術家は与えてくれました。
「共鳴する」アートとは、もしかしたら私たち自身のことかも知れませんね。 (評:ヤマダ)


安藤 光一

「私の中で潜むー自然の風景」
.
. 意識を自分の体から浮遊させ
瞑想の中に浮かんでくるものは
小動物になった私から見た森の中や、魚になった私から見た川の中
見えてくる風景は、自然そのものでもなく
自分の中で組み立てられた、構成された自然の風景
深い森の中に潜む私は
白い月光の照らす太い木の根元の土の中の幼虫を探す
淀んだ湿気の多い空気が包む
むっとした草むらの中で、虫の羽音で目覚める
イマジネーションは
記憶を呼び覚ますように
匂いや温度まで
感じることができる
この瞬時の風景を絵に定着させることによって
心地よいいつか見た景色
心を癒してくれる現風景を表すことができる
この作業を繰り返すことにより
その世界の全部を見ることができ
また
自分がその世界では何なのか分かるのだろう
1998.5.1 安藤 光一


「私の中で潜むー自然の風景

「アダルトチルドレン」という言葉を最近よく耳にします。精神医学的な解釈は私にはよくわかりませんが、世間でのその使われ方が少し気になっています。
「オトナになりきれないコドモみたいなオトナ」というよりは「オトナになりたくないオトナみたいなコドモ」としての使われ方が一般化していると思われるからです。この言葉がマイナスイメージとしてだけではなく一種の開き直りや自己弁護、アンチコミュニケイシヨンの代名詞として流行するような今日の社会状況の特性を、オトナであるワタシやアナタが考えてみる必要があるのではないでしょうか。
「オトナとは?」「コドモとは?」一体どういうことのだろうと。また、オトナとしてコドモたちに何を伝達してきたのかを、逆に一体何を押しつけてきたのかを振り返って考えてみることも大切ではないでしょうか。「コドモがいつかはオトナになる」というのはごく当たり前のことのように思えますが、オトナになるということは
実はとても難しいことなのではないでしょうか。 もちろん「オトナとはなんだろう」という問いには、実にさまざまな考え方があることでしょう。この機会にアナタもオトナとしてその意味を考えてみてください。
さて、今回の作家の安藤さんが、一人のオトナとして、また一人の芸術家としてその役割を果たすべく一つの提案をされています。イマジネーションを働かせ、さらに視覚を集中させることによって、私たちオトナの多くが忘れてしまっていること、つまり人類が自然の摂理の一循環として生きているのだという当たり前の現実を、小さな生きものたちの姿を表出させることによって表現されています。また、そのことをコドモたちにオトナとしてどのようにして伝えていけばよいのかということの一つのヒントも提示してくれています。
私たちが普段見過ごしてしまうような自然界に存在している生きものたち、人為的構成という空間の中でも確かに息づいている彼らの世界を知るためにも、
絵画という手法が、見る側にも創る側にもとても有効だということです。
そして、私たちがこれらの作品から学び取って考えたことをコドモたちにきちんと伝えていくことは「オトナ」としての一つの大切な役割だと思うのですが、アナタはどう思われるでしょうか?
今のアナタの、一体どこが「オトナ」なのか「コドモ」なのかを考えてみるよい機会になるかもしれませんね。 (評:ヤマダ)


あいざわ けいこ

LIVE ―生きるー
. .
人間は
「ナニ」でできているのでしょう?
わたしは
「ナニ」でできているのか?
あなたは
「ナニ」で?
「ナニ」かが
つみかさなって
できているのはわかっていても
それが
いったいなんなのか?
わたしのLIVEに
「ナニ」が
つみかさなっていくのか?
それを
カタチにしてみました
1998.6.1   あいざわ けいこ


「生きるってことの積み重ね」

  
若者達にとっての「自分さがし」という言葉が、メディアや巷でひんぱんに使われるようになってからどれだけ時が経つのでしょう。今ではそれが若者達だけのテーマではなく、現代を生きる私たち一人一人の切実なテーマになってきていると思われます。「自分とはナニか?」「生きるとはナニか?」「自分はナニを求めているのか?」ETC自分に関する分からないことがとても沢山あります。
それらの疑問は歳がいくつになってもつきまといます。ある時、自我に目覚め、自己を意識し、生きることの意味を考え始めたときから、「自分さがし」は一生
ずっと続くのかもしれません。そこで大切なことは、「自分」という言葉は「他人」という言葉の意味を意識しなければ見えてこないものだということ、同様に
「個人とは何か?」という問題も「社会とは何か?」ということを冷静に考えなければ見えてはこないものだと云うことではないでしょうか。
「自分さがし」の有効な近道は「他人さがし」にあるのではないかと私は思っているのですが、みなさんはいかが思われるでしょうか。さて、今回の作家相沢
さんが、広告業界という過密な忙しさの中で自分を見失うまいと必死に頑張りながら、一人の人間として、一芸術家として苦悩しながらも当ギャラリーのために作品を制作されました。「LIVE―生きるー」というテーマは作家自身の生きることへの格闘の表明であり、私たちにとっても避けることのできないテーマです。
手や足が完成されないままの作品は、おそらく相沢さんの中でまだ解答の見えない問題があることの表現でしょうか。それとも人間には、完成された状態と
いうものなどないのだということの主張なのでしょうか。
また相沢さんの云う、自分で確認できるナニかの積み重ねでしか自己は表現できないということなのでしょうか。これは私たちにとっても切実な問いかけの
ように思われます。しかし理由はどうあれ、生きようという意志の結果として、みな現在を生きているのだということ、自発的であれ強制的であれ、精神の中で積み重ねてきたモノが、今の自分を形作っているということをまず確認しておくことが、自分を考えるうえで大切な基本だと思います。その確認から、自分というものを客観的に見つめていけば、自分の中で信じられるナニかが必ず発見できるのではないかという提案を、この芸術家の作品から読みとることができます。
また妄想の中で無理な緊張をすることの無意味さをメッセージとして受け取ることもできます。この機会に
アナタの中で積み重ねてきたモノを今一度のんびりと確認し直してみてはいかがでしょうか。 (評:ヤマダ)


井上 まさじ

拝啓  のん木ギャラリー 様
.
元気なことと思います。新作を一点送ります。
自分自身、今、変化の時の様な気がしています。
その変わり目になる様な作品になると思います。
小さい作品ですが展示してください。
画用紙にクレパスをぬって、鉄筆で線をひいています。
どうってことないようなことですが、
それが大切であることを学びました。
テーマは「死と再生」です。
今年は6月までの半年間は、ペンだけでドローイングをしながら
あれこれ哲学したいと思っています。
いよいよ本当に制作できる歳になったのかもしれません。
今年は43歳になります。名古屋を離れて15年です。
それでは又、お元気で。 
 1998・3 札幌の地より   井上 まさじ


「死と再生」

最近、特に私たち大人に突きつけられている社会問題の一つとして、少年少女たちの“理由なき犯罪”があげられると思います。 “理由なき犯罪”といわれるゆえんは、おそらく「ある意識」を持って「ある力」に対して犯行に及ぶのではなく、己の感情をコントロールできないままということなのでしょうか。
しかし私は、むしろ「コントロールする術や理性」を学ぶ機会を、私たち大人が奪っている現実に、一つの大きな問題があるのではないかと思います。
人間には本来他者や大自然の生あるものに対し、その存在を自己と同様な生ある存在として認め、肯定するという自己決定能力(理性の一部)が備わっていると私は考えています。「死」というものが現実に痛みを伴わない「仮想現実」というメディア情報の中で、不満のはけ口の対象としてリアリティを持たせて
しまっていることを、私たちはもっと反省すべきだと思います。
いつの時代もそうかもしれませんが、このような現象が起きるとき、私はいつも自分を含めて、芸術や芸術家の力がそのような社会に対して有益に働いていないことに無念さを覚えます。
なぜなら芸術には「生あるものを普遍的に肯定していくために、人間はどうあるべきなのか」という哲学を作品を通して社会に提案していく一つの役割があると思うからです。 井上さんとは16年の付き合いになりますが、彼が15年前北海道に移り住んでからも、大自然の息吹の中でそのことをずっと考えつづけ作品を制作していることに尊敬の念を抱きます。
この「死と再生」という作品と出会い、私はとても大きなあたたかさを感じとりました。そこには、「生あるもの」の肯定が「美」という感性で無条件に表現されて
いるからです。「生あるもの」の「美」を感じとり、それを肯定していくことが人間が他者や大自然の生あるものと共に生きていくうえで、どんなに大切なことかを私は再認識させられました。
私たちにとって「死」が必然である以上「死とはなんだろう」と哲学することから逃げることはできません。
そして肉体が死してのち、他者の内に再生されていく自己の存在とはなんなのだろうと真剣に考えてみることは、今を生きる自分の感性(精神)の内にある
「美」と出会う一番のきっかけになると思います。
私たちの「美」が「再生」というかたちで生きつづけることを信じたいですね。  (評:ヤマダ)


加藤 弘

「自分へ辿りつくために」

私は無意識の内に
いつも本当の自分に辿りつきたいという欲求があります
おそらく
本当の自分などというものはないのかもしれないし
私が知らないだけなのかもしれません
でもいつもどこかで
もがいている自分がいることは確かなのです
そんな自分に出逢いたいという欲求が
私を作品の制作に向かわせます
私が和紙と墨にこだわるのは
私が日本人なのだからかもしれません
和紙は墨をどん欲に食べ尽くしていきます
まるで意識から無意識の世界へ
自覚が姿を変え溶け込んでいくように
今回はリキテックスという
外来の絵の具を墨と併用して使ってみました
リキテックスは和紙に食べられまいと
画面の表層にへばりついています
それはまるで現代の世相を反映しているかのようです
私にとって作品を創るということは
自分が生きていることの意味や
日本人であるということの意識を探すための旅です
1999.6.1 加藤 弘


「自分へ辿りつくために」

    
20世紀になって、人間の精神領域に意識と無意識の分野があることは、フロイト以来ユングらによって解明されています。さらには60年代にはマズローらに
よって、無意識の下にもう一つの、おそらく人類に共通な普遍性を持つであろう無意識があることもわかってきています。
以前より、私は人間がなぜ芸術(beautyやestheticと違うartという意味)という言葉や価値を産み出したのかを考えています。なぜなら、人間が自然と共生して現在まで生きつづけてきたのならば、おそらく芸術という言葉は誕生しなかったのではないかと思うからです。現在、社会での芸術に対する評価は、どうも感覚的・技術的・学術的なことに偏っているのではないかと思います。
私は芸術を、「無意識の世界にある人類共通の普遍性を意識化する表現」だと考えたほうが、より多くの人々に理解されるだろうと思います。多くの人が理解できないと悩んできたシュールリアリスムや抽象表現などが存続しているのは何故でしょう。つまりそれは、表現手段に必要な技術や才能の善し悪しではなく、作者が作品に意識的に表現した人類に普遍的な意識(無意識から意識の世界へ表出可能なもの)を、多くの人が無意識の領域で素直に感じ取り、意識化してきたからだと思うのです。
現代では一般的に美術家イコール芸術家という見方がありますが、美術や音楽や文学などは、あくまでも
芸術のための方法論ではないでしょうか。ちなみに「芸術とは何ですか?」という基本的な問いに答えられる日本人は、作家を含めて非常に少ないというの
が現実です。
さて、今回の作家、加藤さんの芸術家としての探求と提案はその点を考える上でとても参考になります。墨という日本的なモノとリキテックスという西欧的な
モノを、和紙という画面上で調和させようと試みているのがよくわかります。墨は和紙に吸い込まれ姿を変え、記憶の外へ消えてしまいそうです。リキテックスは和紙に押し戻されながらも自己を主張しているようです。和紙は広い無意識の世界、墨・リキテックスは無意識から意識化されたものなのでしょうか……。加藤さんはそのことを現代を生きる日本人の状況にとてもよく似ていると考え、私たちの問題として問いかけているのです。彼が自分の無意識の中にある
普遍性や日本人としてのアイデンティティに辿りつくために、作品を創作しつづけているのがよくわかります。
しかし、このことはなにも加藤さんだけの問いではなく、私たち自身への問いでもあります。
今回の作品を通して、アナタもアナタ自身の無意識の中にある、人類共通の普遍性に辿りつくために、日常の表現をもうすこし真剣に考えてみれば、他人を
同じ人間として新しい視点で発見できるだろうし、また自分さがしも楽しくなるかもしれません。この作品展を「アナタの中に存在している芸術」に辿りつく良い
機会としたいものですね。 (評:ヤマダ)


勝山 都

「指の旅」

わたしの指はなま傷が絶えません
やかんで火傷する
戸口ではさむ
転んで助けようと慌てた友の足先に踏まれる
怪我をすると
いろんなものが丁寧に触れなくなるので
毎日が雑になります
だからといって
かれらをかばって暮らすのはつまらない
結局
一年中ワイルドな指の旅がつづきます
でも最近すこし
治りが早くなったと思うのは気のせいかしら
1998.10.1  勝山 都


「 指の旅 」
   

        
最近、特にコドモ達にまつわるたくさんの事件や問題行動が、日本社会の大きな話題となっています。
メディアは自らの責任などをかえりみず、それがあたかも学校や親のせいでもあるかのように、巧妙に私たちの意識を色づけしていきます。今日、メディアの
情報を鵜呑みにするようなオトナは殆どいないとは思いますが、無防備なコドモ達に、メディアが多大な影響を与えているという事実を真剣に受け止めているオトナ達が一体どれほどいるのでしょうか。コドモ達が引き起こす現象などは、実はその殆どがオトナ社会のコピーだと思われます。また、家族という共同体が良くも悪くもコドモ達に与える影響は計り知れないことでしょう。
「教育」は「共育」だと、ある教育者が云っています。つまりオトナもコドモも互いに学び合って成長していくことが「共育」だという考え方です。この「育てる」
「育てられる」「育つ」という考え方の上で、私たちは一体人間として「何」を育てようとしているのかということを今一度自分に問いかけてみる必要があるのではないかと思います。
さて、今回の勝山さんの「指の旅」という作品を拝見して、私は人間関係を考える上で一つの発見をしました。それは、指の感覚と意識の関係が人間同士の
関係にとてもよく似ているのではないかということです。
ところで皆さんは「指」という言葉から何を連想されるでしょうか。とても沢山のことを思い浮かべられることでしょう。しかし、この作品を観るにあたっては「無意識に動く指」と「意識的に動かす指」とを少し分けて考えてみることが大切だと思います。そして、自分の指の動きの何が無意識で、何が意識的なのかを思い浮かべながら吟味する必要があります。勝山さんは、特に後者の「指」について重要な提案をされているのではないかと私は思います。それは、“意識的に
動かす”ということの意識の中身が一体何なのかをじっくり考え直して欲しいということだと思います。
「指」が従うアナタの意識というものが一体どんな価値観やどんな欲望に基づいているのか、逆に「指」が素直に感じ取ったものからアナタは何を意識しようとしているのかという問いかけです。
つまり、自分の指の「感覚」と、指を動かす「意識」との関係性を、自分と他人や、今の自分と未知なる自分との関係性へとリンクさせ、自らを育てる上で「共育」という考え方がいかに大切かということの提案ではないかと私は思います。この機会に、自分が今、何を育てようとしているのかを見つめ直してみることは、
アナタの「指の旅」を実り多き楽しいものにしてくれるのではないでしょうか。 (評:ヤマダ)



中川和幸

「私の<何>が生きているのか?」

日常という空間の中で
<こうして>生きつづけてている私
人間が
<何のために生きているのだろうか>という問いは
大昔から
すべての人間が自己に問うてきたことである
私が<生きる>ということは
私自身のため?家族のため?社会のため?
死という当たりまえの摂理のため?
いつも酔いに逆らって
頭の中をぐるぐる巡る<言葉>という記号
〇◇☆♂△♀◎
<生きる><生きている><生かされている><生きること>
<生きることとの関係><自己の内面的思索><造形>
<自己と自然><宇宙><形而上><普遍的なるものへの憧憬>
<日常積み重なる数万の体験からなる思索を通しての経験>
<家族><社会>
<絶望とすれすれにある希望><希望とすれすれにある絶望>
<窮苦の中にのみ見出しうる魂の根源的な状態>
<純粋で透明な魂の内に在る明るいかなしみ>
など…など…など…
1999/1/5  中川 和幸


「私の<何>が生きているのか?」

世紀末の今年を暗示するかのような事件が、昨年は日本でも多発しました。中でも、死に至らしめる毒物を使用した事件が目を惹きました。そして年末には、インターネット空間におけるヴァーチャル自殺ゲームが密室の中で現実と化してしまいました。金のためなら手段を選ばない殺人ゲーム、もう一方はヴァーチャルのために手段を選んだ自殺という殺人ゲームです。事の真相は私には分かりませんが、これらの事件に共通していることがあるように思います。
それは簡単に云えば、生命の物体化、商品化ということでしょう。とうとう人間の生命までが、商品と同様に使い捨てになってしまう世の中になったかという
思いです。そのことが何を意味するのかは、各自が考えなければならないことですが、「人間が地球に誕生し、自然の摂理の内に必ず死ぬ」という当たり前のことを、多くの人がわからなくなってしまったのでしょうか。いろんな殺人事件が起きるたびに、加害者がもし被害者や家族の立場だったら、どう考えるのだろうかと思います。それは巷で繰り返されるひったくり事件などの比較的軽い犯罪についても同じことでしょう。加害者が、もしも逆の立場でひったくられたら何と
いうでしょう。
おそらく「あのヤロー!殺してやる!」というような怒りの言葉を発するにちがいありません。
それにもかかわらず、自分が害を加えるときは身勝手な欲望だけを短絡的に優先するのです。それはまるでTVゲームの狭窄的達成感に似ています。“モラル”というものが、時代によってその基準を変えることはあるでしょう。しかし、人間の生命の肯定やその保障についての意志決定には、時代などは関係ないはずでしょう。それは例えば戦争中においても同じことだと思います。争いが人間の動物的な自己防衛本能の一つだとしても、戦争という幻想的殺人ゲームは、人間が意志決定の可能な存在である限り、それを克服する可能性はあると考えたほうが論理的だと思います。それでは、現代という時代を生きている私たちにとって、人間として責任を持って果たすべきモラルや普遍性を持つ意志決定とは一体なんなのでしょうか?
 これはアナタにとっても避けられない問題です。ましてや芸術家はその問題意識のために表現しているといっても過言ではありません。また、本来の意味での芸術が、いつの時代においても人間の存在の肯定や、
その意味の発見に重要な提案や役割を果たしてきたことを、芸術に関心のあるみなさんならご存じのことだと思います。さて今回の作家中川さんが、自問自答しながら私たちに提案する芸術家としての問いかけを、私たちは真摯に受け止めなければいけません。
「アナタの<何>が生きているのか?」という問いかけに対し、私たちはきちんと意識して考えなければならないでしょう。彼の静謐な画面から私が受け止めるものは、人間が感情や感覚だけで生きている存在ではなく、人類の誕生以来、人間が精神という領域の中に、多くの人が未だ気づいていない「普遍性を持つ感性」というものがあるのではないかということです。そして、それが何かを彼の作品を通して少しでも学び取ることにより、自分や他人の存在の意味をもう一度考え直し、人間の普遍的意識について一歩深めたいと思います。アナタの<何>が生きているのかということはアナタにしか分からないことかもしれません。
しかし、民族や宗教が違ってもみな同じ人間であるということには変わりありません。
中川さんの作品をきっかけに、アナタの知らない人間達が<何>を生きているのかと、少しでもいいから考えてみることは、アナタの精神の中にある新しい
感性に出会うすばらしい経験になると私は思います。そうすることがアナタの生きている意味をより明らかに、より新しくしてくれるのではないでしょうか。
 
(評:ヤマダ)


中根 幹夫

「友だちでいることの大切さ」

私には 数十年来にわたる親友とよべる人が数人います
彼らと私が親友としてつづいているのは
単に 気が合うだけなのか
趣味が共通しているだけなのか
いろんな価値観が似ているのか
なにかを信頼しあっているのか
私はそれを うまく言葉で言い表すことができません
今回かれらをイラストレーションに描くことによって
私にも はじめて見えてきたものがあるような気がします
意固地でさみしがりやの私もこんな友たちには
心から感謝しています
みなさんにも心から感謝できる友たちがいらっしゃいますか?
1999.2.1  中根 幹夫


 「友だちでいることの大切さ」展

[アート」という言葉が、こんなにも日常的に使われるようになったのは、果たしていつからのことでしょうか。60年代の高度成長期からマスコミやメディアに徐々に登場しはじめたこの言葉は、今ではとても一般的に使われています。しかし当時は「アート」という言葉が、まだ「芸術」という意味合いで使われていたと
思います。今日のようにその言葉の幅はそんなに広くありませんでした。「アート」は芸大卒や有名人など一部の人々の一種の特権のようなものでした。
しかし、70年前後ころから若者文化を中心に欧米の影響を色濃く反映した「アート」が沢山出現しました。特に音楽、美術をはじめとして映画や芝居などにも
拡がっていきました。又、反戦、安保問題などを初めとした当時の社会の問題とかなり深く関わっていました。その点では「アート」は社会に対して芸術としての役割を果たしていたと思います。ところで今日の「アート」の状況はどうでしょうか。
文化が消費の対象になっていく過程で「アート」も商品性を増していったことは間違いありません。その中で生まれてきた言葉に「商業アート」という言葉があります。つまり商品価値としての「アート」です。この考え方は一方では「アート」の範疇をとても拡大しました。しかし、その反面、売れないもの、有名でないものは価値がないといわんばかりの風潮も生み出してしまいました。それが今日の「芸術」という概念の混乱と低迷を招いてきたと私は思います。
考えてみれば「アート」という言葉よりも「アーティスト」という言葉のほうが、今では一般化してしまったように思われます。「モノ」を創ればそこに哲学やメッセージがなくても「アーティスト」なのです。プロもアマもうまいへたも関係ありません。それはそれで「アート」の底辺を拡げたと考えれば歓迎すべきことかもしれません。 しかし、私は「商業アート」と「商業目的ではないアート」とをしっかり分けて考えるべきだと思います。広告業界で活躍するデザイナー、イラストレイター、カメラマンなどのクリエイターたちは、本来、美術という芸術の分野で捉えるべき方法を生業としているのですが、その手法においてはとても水準の高い人たちが多いことは事実です。しかし、残念ながらその手法を商業目的ではなく「芸術」という分野で発表し、提案している人はとても少ないのです。
そこで今回の作家、中根さんの活動に関係してくるのですが、彼はその点をしっかりと分けて考えられる作家です。イラストレーションという手法を用いて、
ビジネスとしてのアートと、芸術としてのアートを、意識的に使い分け、毎年多くのギャラリーで個展をされています。今回の「のん木ギャラリー」での作品は彼の親友と呼べる人たちの内面を描き出すことによって、中根さんが彼らの「何」を信頼してきたのだろうかということを再確認する芸術家としての大切な作業だったそうです。
一見すると、写真という手法でも可能ではないかと思われる表現ですが、よく見てみると、やはり描くという手法でしか表現できない意識的なデフォルメ(誇張)が多く見られます。よく知ったつもりでいる友たちの「短所」を語れと云われれば、私たちはあまり苦労はしないでしょう。しかし、信頼できる「長所」を語れといわれれば、ずいぶんと考え込んでしまいます。中根さんはそのあたりの「信頼の中身を自分で確認していることの大切さ」を、芸術家として私たちに提案しているのでしょう。また、画面に登場している人物たちの目線は、ほんのかすかに見る人の視線とずらしてあります。それがなにを意味するのかはわかりませんが、私はそこに人間の信頼関係というものの無常さを垣間見た中根さんの想いを感じ取ることができます (評:ヤマダ)


西村 むつ子

――― 光の河 ―――

天空に光る月と星
放たれる幾筋もの光の河は彩を織り成す
すべてのものにふりそそぎ
あふれるようにとうとうと
きらめき歌い流れゆく
風 、光の河をわたる風
ほほに触れ髪をとかし耳元にささやき腕をくむ
今日もまた一日を終わるとき
思いは光の河に抱かれて自由に風とたわむれる
星たちのまたたきが消えるまでの
光と風の物語   月と星の物語

1998.7.1 西村 むつ子


「光の河」

光りの届かない深海の暗闇の中にも、数多くの色彩をもった生きものたちが棲息していることは、特殊カメラでとらえた映像を通して、私たちは知ることができます。光りが届かないのになぜだろうと、私には不思議に思えます。また、宇宙に存在する無数の星たちが、恒星の発する光りを受けて輝いていることも知識としては知っています。宇宙飛行士の体験によれば、地球はなぜか青く輝いているそうです。
地球という生命体は、太陽からの光と熱で生かされています。太陽がなくては生きてはゆけません。しかし、その当たり前の事実を私たちが日常の中で意識して生きているかといえば、ほとんどの人は、忙しさや情報の氾濫の中でそれを気にもとめないと云ってもいいでしょう。青空や色鮮やかな花たちを見ても、太陽から贈られてくるその光りの恵みに感謝することなど忘れてしまっているのではないでしょうか。
その点、今回の西村さんの作品は、「光の河」というタイトルにもあるように、光りに対して無自覚な私たちにその存在のすばらしさを視覚的に気づかせてくれます。
本来、私たちは光の当たるその対象物を通して色彩の存在を確認します。しかし、その色彩が対象物の持っている色そのものなのか、「光り」そのものが持っている色の反映なのかは、実はわからないのです。
西村さんは芸術家として、今回その点について一つの提案をしているのではないかと私は思います。
それは「光り」そのものにも「色」があるのだという考え方への転換です。元来透明であるはずの光りそのものに、色彩を付けるという方法で作品によってわかりやすく提案されています。作品を観ている内に、その考え方を私は人間の存在そのものにも当てはめてみてはどうかと思いました。そうすることによって、人間同士や、人間とそれ以外の自然の生き物たちの関係においても、「光り」と対象物の関係性のように考え方を転換させてみれば、解決することや発見することがとても沢山あるのではないかと思えるからです。
人間一人一人の存在は「光り」そのものだと云えるのではないでしょうか。西村さんは素材の木綿を自分の手で染めることから始めるそうです。染め粉は自然の草木からのもの。
つまり、太陽から贈られた光りが、草木を通し、作品を通し、視覚を通し、まるで河の流れのように、私たちの精神の海へとつづいているのです。さて、アナタの内で流れる「光の河」には、どんな色彩が輝いているのでしょうか。これを機会に、今夜あたり、天空の星を見つめながら考えてみるのもいいかもしれませんね。 (評:ヤマダ)


彭城 晴苗
「木と人間の循環する場所 」
.
 私たち人間は、地球上で生まれた生物です。
 そして、木も地球から生まれた生きものです。
 私たち人間はいま大変な悪循環を引き起こしています。
 しかし、木たちは綿々と循環しています。
 人間は自分たちが起こした悪循環で、苦しんだり死んでいったりします。
 たとえばガンという病気があります。
 ガン細胞はどんどん体の中に悪循環を起こして拡がってゆきます。
 まるで、私たち人間が地球に拡がってゆくように。
 しかし、ガン細胞が人間の悪循環が生んだものだとするならば
 私たち人間も、地球の悪循環によって生まれたものなのかもしれません。
 人間が悪性の細胞により死んでしまえば、その細胞も死んでしまいます。
生きてはゆけないのです。その細胞は、自らが生きてゆけなくなる
ことを知っていて、人間の体の中で増えているのでしょうか。
 現在の私たちは、地球の悪循環から生まれてきたのでしょうか。
 私たちの存在が自らの意志とは別に、何かに流されているのか、
本能に依るところなのかは分かりませんが、このまま人間がいなく
なれば地球はキレイになるのでしょうか。
 それともそういう時期に来ているのか、それも私には分かりません。
 そんな悪循環と循環がまざった場所。
つまり、人間と木が関わっている場所をじっと見すえることぐらいしか
私にはできないし、他のことはよく分かりません。
 人と関わっている木、人と生活している木、人に生かされている木
 木たちは、それをどう受けとめて何を想っているのでしょうか?
 そんなことを考えたことはありますか?
 みなさんの身近にある木たちを
 そんな想いで見つめたことがありますか?
.
              1998.11.1  彭城 晴苗


 「 木と人間の循環する場所 」

先日、あるメディアで“あなたのアイデンティティとはなんですか?”というテーマの若者に向けた特集番組を見る機会がありました。みなさんも耳にしたことのある「アイデンティティ」という言葉の意味は、自分の身元や正体を証明するものとは一体何なのかということです。またあなたがそれを自分で確認し自信を持って生きているのかという問いかけをもこの言葉は含んでいます。
番組の中で多くの若者が、自分がどこの国籍に所属するのか、親は誰であるか、学生であるか社会人であるか、男か女か、というようなことは確認できるが、果たして一人の人間として一体自分は「何もの?」なんだろうかということには、自信が持てないし、よくわからないという発言が大勢を占めていたと記憶しています。私はこの「何もの?」かを自分の問題として、みんなで真剣に考えてみる必要があると思います。私自身について考えてみると私がどこの国籍を持つとか、どんな職業に就いているとか、人より何が得意なのかということなど、いわゆる世間から見た私に対するカタログ的なものは大した問題ではありません。むしろどのように教育され、何に意味を見いだして現在を生きようとしているのか、また私という人間が生かされていることにどんな意味があるのか、そして社会にとって自分の存在はどんな意味を持つのか、ということをいつも自分の力で考え意識しつづけていくことが、私自身のアイデンティティではないかと考えています。
実は、今回の彭城さんの作品が、指先の指紋で描かれていることにアイデンティティという言葉を想い起こしたのですが、彼女の芸術家としてのそのこだわりに学ぶべきものがあると思います。筆で描く行為と指で描く行為の違いは何なのかということです。道具としての筆の使い方にうまい下手は確かにあるでしょう。
しかし、彼女の刻印した指紋は世界で唯一の固有のものです。そして、これらの作品を、もしもあなたがあなたの指紋で完全に模写したとするなら、それは全く意味の違った作品となるはずだからです。また、描かれたこれらの木のアイデンティティとは何だろうということも考えさせられました。そして彼女が人間としてこれらの木にどんな共感を覚えたのだろうかということも。おそらく彭城さんが芸術家として提案していることは、木と人間の関係性が人間と人間の関係性と全く同じだということ、つまり木にも精神やアイデンティティがあるのだということではないでしょうか。
同時に、私たち自身もカタログ以外に精神的存在理由があるはずです。それに気づくためにも、今一度自分の指紋を刻印し確認し直してみることは有効なことでしょう。そしてまた、身近な木々たちの豊かな精神と対話することが、未知のアイデンティティの発見に繋がるかもしれません。 (評:ヤマダ)


野畑実芳

 「A N T I N O M Y」

田園風景の拡がる都市の郊外に行くと
農家の片隅に打ち捨てられた
今にも崩れそうな廃屋をみかける

納屋なのか機材置き場なのか
その建物は雑草たちの勢いに埋もれている
さらに
つるを伸ばす蔦のような植物が
その壁や屋根を深く覆い尽くしている

獲物を襲う肉食獣の餌食に群がる
蟻の大群の様相をした
その光景

人間が過酷な自然と闘い
文明という力によってこの地球を侵蝕してきた歴史

しかし地球の自然生命力によって
今それらの文明が
人間の気付かないところで侵蝕されている

自然とは
暖かく包み込んでくれる居心地の良い場所なのか
それとも
人間に逆襲を目論むもう一方の勢力なのか


*ANTINOMY(二律背反)   互いに矛盾する二つの命題が同等の
                 妥当性を持って主張され両立しないこと

1998.9.1   野畑 実芳


「ANTINOMY」(二律背反)
 

 “自分は一体何のために生まれてきたのだろう?”いう素朴な問いから、私たちは逃れることはできません。意志を持たない「ヒト」としてこの地球に生み落とされ、いつの日か「自我」に目覚め「自分とは何ものだろう?」と哲学し始めたときからそれは一生つづく問いでもあります。しかし、それはなにも人間だけに
限ったことではなく、地球に存在するすべての生命体に共通しているテーマであろうと私には思われます。
例えば、草木や動物たちが私たちの気づかないところで、常に環境に対応しながらも生きつづけていることは生物史をみれば明らかなことです。ところで、この問いを発するとき私たちは「生きるということ」と「生かされているということ」の区別をしないまま悩みつづけていることが多いのではないでしょうか。
それは、自分の意志とは関係なしに生かされているという自己の存在領域を、あたかも地球には空気があるのは当たり前だという具合いに忘れてしまっていることが多いからです。死や病気や運命的な悩みに直面して初めて生かされている身体の存在や精神の存在に気づく有様です。
さて、今回の野畑さんの作品はそのテーマにもあるように地球上に存在する自然(人類以外の)の摂理という一つの正当性が、人類が築き上げてきた人工的な摂理というものの正当性と、身近な日常性の中で激しくぶつかり合って格闘しているという現実を、フォトグラフという方法で私たちの前に明らかにしています。その昔、人類は地球という生命体の摂理に翻弄され、それに従うことを余儀なくされていました。
しかし、科学文明の力によってあたかも自然に打ち勝ってきたかの如く錯覚してきた歴史と現実が、今日いろんな現象によって地球から警告を発せられていることは明白です。今回、野畑さんによって写し出された自然界の摂理の一場面、そしてそれに挑戦しつづける人類の人工的な摂理。 その人類の摂理が、果たして愚かなものなのか賢いものなのかは、この作品と向かい合う私たち一人一人に問われている問題でしょう。私はまたこれらの作品からもう一つの提案を読みとりました。それは、自分の内にある地球とつながっている自然の摂理とは何かということを見つめ直し、生きている意味を今一度「人類の一員として」確認し直すべきではないかということです。また、それを自分が関係する現実での いろいろな人間関係に置き換えて考え、人間同士として何が自然な関係や考え方なのか、何が人工的(幻想的)な関係や考え方なのかを問い直すということではないでしょうか。
人類と自然が共に生きうる良い関係を創り出す人間の知恵とは、一体何だろうという野畑さんの芸術家としての提案を、これらの作品を通してアナタや私が
考えなければならないのではないでしょうか。 (評:ヤマダ)


石川基子

「新しい一歩は外へ」

自分が他人からどう見られているか
〇〇はこうあるべきだとか
こうしなくてはならないという思い込みが
自分で自分を縛って
がんじがらめにして
八方塞がりにして
息苦しくさせている
あるがままを受け容れたら
もっと自分も周りの人々も
楽しくなれるのに
そして
新しい一歩が外に踏み出せるのに……という思いで
制作しました

1999.5.1  石川 基子


「新しい一歩へ」

ここ数年来、我が国に流行っているものの一つにペットブームがあります。ペットといっても実に多種多様で、中にはパソコンやゲーム機のなかで育てるモノ
まであります。ブームの背景には、おそらく現代社会の人間関係のあり方の変化や自然との関係性の欠如が影響していることは想像がつきます。
ところでペットの本来の意味はというと、愛玩動物つまり人間がかわいがって育てる小鳥や小動物のことをいいます。特に都会におけるペットたちは、人間に保護されなければ生きてはいけないほど野性的本能を奪われています。野生ということは、何も荒々しいという表面的なことではなく、生存するための自立した力があるということです。そこにいて主人のお相手をしていれば、エサを与えられ、生存が保障されることに慣れきってしまったペットが外に放り出されれば、それはときには死を意味することになるでしょう。
今回なぜペットのことを取り上げたのかといえば、ペットたちの置かれている状況と、都会という空間に住む私たちの構造が一面とてもよく似ているのではないかと考えるからです。最近とくに問題になっているコドモ達への虐待などは、その精神的意識構造が主人とペットとの関係性に類似していると私は思うからです。
言いかえれば人間のペット化が起きているのかもしれないということです。与えられることに慣れてしまった人間は、逆にお金さえあれば何でも手に入るという幻想を持ってしまいがちです。だから、子供を愛することと子供に愛着を持つことを混同した大人達は、思いどうりにならない子供に対して、モノを与え、云うことを聞かない時はペットのように虐待し、それでもだめなら育てることを放棄するのでしょう。
さて、子供をどう育てるかは各自の判断に任せるとしても、そこに理想的なマニュアルなどあるのでしょうか。現代はなぜかマニュアルというエサがないと不安でしかたがないという人たちが増えていると思います。
しかしいまここで大切なことは、自分の中の何がペット化してるのかということを考えることではないでしょうか。そこで、今回の作家石川さんの提案が一つの
ヒントになると思います。彼女が作品を通してメッセージしていることは、マニュアルにはない自分の個性の可能性という問題です。情報によって与えられる
多量の幻想(石川さんの云うおもいこみ)に、私たちはがんじがらめになっています。すてきな何か(ペツト)を演じることは、無理があるだけにとても疲れます。大切なことは自分で考える「すてきな自分」とは何かということでしょう。
それを知るためには「自分で作ってしまったおもいこみというオリの中から一歩踏み出すしかない」いう、芸術家としての石川さんの提案は、私たちに一つの
勇気を与えてくれます。また、自信というものはそれの積み重ねからしか産まれないということなのでしょう。 (評:ヤマダ)


東條尚子

わたしがわたしに名前をつける」

わたしはわたしの中の世界に
名前をつけなおす
口詠さむことができるように
五七調(五七五七七にすること)に整える
業界ではこれを短歌を詠む と表現する
ときどきその五七調からとび出ていたり
足りなかったりするけれど 
それはまあ そういうこともあるさ
ドリカムの歌だって歌うときたいへんじゃん!
と言ってカンベンしてもらう
わたしの中の世界というかたちのないものが
かたちになると(つまり短歌になると)わたしはうれしい
やっとわたしはわたしとして生きている 
と感じることができる
今回
それと野畑さんの写真という世界と重ねることができた
そこへもってきて
顔も知らない読む人見る人というあなたがいる
もしも 
あなたが短歌を読んで写真を見て
何か感じることがあるのなら
あなたがあなたの世界に新しい名前をつける 
ということなのだ
そうなったら 
これまた こんなにうれしいことはないと思う

1999.7.1  東條尚子


 「わたしがわたしに名前をつける」短歌展  

ここ数年、マスコミ紙上を賑わせていた「自分さがし」という言葉を、最近はあまり目にすることが、少なくなってきたように思います。だからといって、多くの人が納得できる自分を、探し当てているかといえば、どうもそうではなさそうです。おそらく、状況はもっと深刻です。自分で信ずるに足りる自分を探し求めるということさえ、他の誰かに答えを求めるか、何かのマニュアルによって自分のことを規定してもらうほうが、手っ取り早いし楽だというムードが蔓延してきているのではないかと私には思えます。
個性・個性と騒がれるわりには、個人の意見や考え方を、自分の言葉で語る人は、まだとても少ないのではないのでしょうか。「自信がない」と思いこんでいる人が増えているからなのか、カウンセリングや占いやカルトが流行っている現実があります。私は「自信」という言葉が、日本では誤解されて使われているように思います。それは多くの場合、他人との能力の差について使われています。
しかし、人間の能力には、みな違いがあって当たり前のことなのに、なぜかその違いを個性として尊重しようとするモラルが欠けています。つまり、人間の存在そのものを、まず無条件に認めようとする基本的意識がとても希薄に思えてなりません。それが何故なのかは私たちが各自考えるべき課題でもあります。「自信」という言葉の意味は、自分の存在、つまり、いま呼吸をしている肉体と精神を持った自分という人間が、正に生きている事実を、自分の意識で確認し、OKを出し、信じることだと私は思います。これは誰にでもできる作業であり、むつかしいことではありません。そう考えてみれば、他人と比較することの無意味さがわかってきます。大切なことは人間としての自分が、自然の摂理の中でどこに位置しているのかを、いつも冷静に考え、人間の一人として何を生きようとしているのか、つまり夢や希望を探しつづけていくことではないでしょうか。
今回の作家、東條さんは、その意味において、自分の内に潜んでいる、まだ言葉になっていない人間としての自分を、短歌という方法で模索し発表しつづけてみえます。短歌という言葉(意識をもった文字)を使った方法論は、一見私たちの意識に直接に響いてくるように思われますが、その様式と語感は、視覚の
助けを借りて私たちの無意識に働きかけているのです。特に今回は野畑さんの写真作品と呼応する形で、視覚のイメージを言葉として捉え直し、自然界に
ある草木や風や水の生命の存在を、自分の内にある未知の自分、つまり言葉になる前の無自覚の意識と連動させることによって、またそれら自然界の息吹の力に助けられて、新しい自分に出会うことの大切さを、彼女は芸術家として提案されているのだと思います。そうすることが自分を信じること、つまり、私たちが生きていることに自信を持つことへの第一歩ではないかと思います  (評:ヤマダ)


渡辺 健一
「不思議な楽しさ トリックアート」
.
トリックアートとは人の眼をくらますための
からくり絵 だまし絵など
現実にはあり得ない現象を
あたかもあるように見せかける造作行為や絵画のことです
見る人がその作品に接して
作者によって仕掛けられたトリックに気づいたとき
驚きと不思議な世界を体験することのできる
楽しいアートのことです
世界的にはM・C・エッシャーという作家が有名です
私が作品を造るうえでのモットーは無条件に楽しい世界 
不思議さで人々を驚かせる世界
そしてこれまでにないオリジナリティのある世界です
そして現代のさまざまな現象などを取り入れた
油絵による作品造りにチャレンジしていきたいと思います
どうぞ 不思議な世界をお楽しみください
1998・4・1 トりッくアーちスと 渡辺 健一


 「不思議な楽しさ」トリックアート

   
私は小さい頃から、いわゆる手品とか知恵の輪というものが好きでした。現在のように大がかりなマジックショーなどない時代でしたが、デパートの手品売場や小学校の先生やまわりの大人達が、子供たちにたくさん手品をやって見せてくれたものです。子供心にもそれが不思議でふしぎでたまりませんでした。手品にはタネがあるということは知っているものですから、せがんではタネあかしをしてもらったものです。
しかしタネがわかったあとでも同じ手品を見てその不思議さに再び感動してしまいます。私の視覚が鈍いのか手品師の技が見事なのかはわかりませんが、大人になった今でもその不思議さに変わりはありません。頭では理屈がわかっているのにもかかわらず、私の視覚の癖は一向にわかろうとしないのです。ある手品師が「視覚には死角があるのですよ」と教えてくれたのをおぼえています。おそらくそれは、私たちの「眼」が、確かにその「タネ」の動きを「光」として捕らえているにもかかわらず、それを認識するだけの意識の時間的な判断力がないからではないかと思われます。
言いかえるならば、一度認識してしまった物事の関係性を、視覚の仕組みだけで判断し置き換えることは、
とても難しいということなのかもしれません。おそらくそれは、私たちが視覚というものによって物事の関係性を理解していくことが当たり前のようになっていて、理屈から入って視覚が出来上がっていくのではないからでしょう。手品のトリックはその辺りをじつにうまく利用しているのではないでしょうか。また、私は耳目から入る世間の情報というものにも、多くのトリックが仕掛けられているのではないかとひねくれて考えています。
渡辺さんの作品のように楽しいトリックばかりならば問題はないのでしょうが、多くの情報はよく見聞きする必要があると思います。トリックアートはそのような意味においても、私たちの物事の認識に対する錯覚や勘違いを、今一度問い直させてくれるよい訓練の機会を提供してくれています。渡辺さんの作品を楽しむように、世間の情報に対し楽しみながらタネあかしをしてみることは、アナタの日常をとてもアーティスティックにするのではないかと私は思うのですが、いかがでしょうか。 (評:ヤマダ)



義積 五郎

「国境が無ければ」

人間はなぜ戦いを好むのだろうか
動物の社会は進化した種族ほどボスができ
グループ間で争いが起きている
我々人類はまさに争いの頂点にいるのではなかろうか
私は世界をひとりで旅してきた
それぞれの地域の底辺の人々に目線を合わせてきた
そうすることによってどの国の人々とも直ぐ仲良くなれる
かれらはみな争い合う心など全くない
いつからなのか人類に過大な物欲が生まれ
それを力によって確保するために権力が生まれた
そしてその権力を守るために縄張りを作り
他の権力者たちとそれらの奪い合いが始まった
権力者という「ボス」は住民たちを力によって支配し
ついに「国」という大きな垣根を作り国境が生まれた
権力者の欲望には際限がない
自分のために国民を酷使して思想や宗教まで押しつける
国民を奴隷や家畜のように働かせ己の地位を確保する
国力という美名の下に国民の隷属を強化しているのだ
私は旅をして大きな遺跡や教会などを沢山見るが
それは民衆の血と力で作り上げられた
悲しい墓標にしか見えない
物々交換で助け合い通貨の要らない生活をしている底辺の人々は
辺地の山奥で細々と静かに生きている
権力者の征服をまぬがれたのか彼らに追い込まれたのか
わずかな純朴な人々がそこには確かに生きている
願わくば国境が無くなり権力者がいなくなる
いつの日かそんな地球社会が出来てほしいものだ
そのためにも私は旅をつづけかれらを写真に撮りつづけたい
1999・4・1  義積 五郎

.


「地球に国境が無ければ」  

   
「科学は自然宇宙の内にある不思議を解明していく学問であり、決して技術ではない」とある著名な科学者が以前新聞で語っていたことを今でも記憶しています。なぜなら「科学」という言葉に、そのときまで私がとても冷たい物理的な響きを感じ取っていたからでしょうか。
自然の不思議というならば、当然そこには人間の存在や精神の不思議も含まれるはずです。そう考えると科学がとても身近な暖かみのあるものに思えてきたのです。また彼は、自然科学は無から有を生じるというような奇跡的なことではなく、自然の摂理に対し謙虚に耳をかたむけ、自然界の不思議と根気よく対話していくことによって、発見され導かれていく交流の学問だといいます。そのような観点で人間の存在について考えてみるならば、民族性とか土着性というものは正に自然界の不思議でしょう。
また芸術や宗教など人間の精神や意識の表現も不思議の一つかもしれません。それらは精神を科学することによって生まれてきたものなのでしょうか。現代のような文明社会に住んでいる私たちは、いわゆる進歩的な技術を体験することによって科学の力を実感することができます。特に戦争などという場合には、最新兵器という形でそれを思い知らされます。しかし兵器というものが自然の不思議を解明した結果だとは、私にはとても思えません。むしろ、それを生み出す精神構造を科学することのほうが大切だと思います。
さて、今回の作家義積さんは、こども達に自然の温もりを伝える木工の熟練技術者という仕事の合間をぬって、いままでに数十カ所という国々を一人で旅されています。それは日本人としてではなく、一人の地球人としてのコミュニケーションの旅だそうです。彼は特にまだあまり科学文明の支配が行き届かない地域が好きだといいます。そこには、おそらく私たち都会人には想像もつかないほど、自然の不思議がまだ力強く存在しているのでしょう。彼は、そこに住んでいる
人々の内にある自然の不思議さを、私たち都会人が学ぶべく、カメラに納めつづけたいといいます。国や民族に関係なく、彼は常に、いわゆる底辺の人々に
目線を合わせるといいます。なぜなら、それらの人々は民族や言葉が違っても、争い合う気持ちなどがないからだそうです。
私は、義積さんのこの視点は、芸術家としてとても重要な意識だと思います。現在、各地で起きている民族紛争や戦争は、決して彼らのような自然の不思議の内で生きる人々が起こしたものではないからです。
義積さんの写真作品から私たちが学び取らねばならないことは、私たち文明人の内にも、本来、人と人が
争う気などないという精神性が、自然の不思議の一つとして確実に内在しているのだということに気づき、
それを意識することではないかと思います。義積さんが、旅と写真という方法論で、その精神性を実践されていることに、私は敬意を表したいと思います。 (評:ヤマダ)


中川 榮二

「宇宙のリズムに染まる」
.
. 雪が一面に積もった銀世界を目の前にしたとき
その美しい純白の世界を禾歳したくないと思う反面
思いきり駆け回って自分の足あとや道すじを
つけたくなる衝動に駆られます。
無垢の白い布に向かい合うとき
私の衝動が色や線となって布の中へと染み込んでゆきます。
未知の世界への期待と不安が色彩となって交わり合い
そこにはまるで宇宙の彼方に漂うような喜びがあります。
布という白銀の世界に私が描いた
足あとのひとつひとつ……
これらの作品が
みなさんとのひとときの対話の中で
人と人が染まるように交わり合う
新しい小宇宙へとつながってゆけるならば私はとても幸いです

染め作家  中川 榮二
1998.8.1


「宇宙のリズムに染まる」

 
     
子供の頃、木綿のシャツやズボンにおかずの汁とか果物の汁などをこぼし、シミになってよく叱られた思い出がみなさんにもあると思います。一度付いたシミはなかなかキレイには落ちなかった記憶がありませんか。それは裏を返せば、自然の食べ物たちの色素はとても染まりやすいということになるのでしょう。さて、「染める」という技術を人類が発明したのはいつのことなのか私には知る由もありませんが、昔も今もその原理や方法に大差はないように思われます。この地球上で色彩を持っているモノたちの元来の「色」というものは、果たして何処から生まれてきたのでしょうか。
そんなことを考えてみたことはありませんか?地球上に存在する色というものは、おそらく太陽という存在を抜きにしては考えられないことでしょう。殆どのモノは光と熱の加減によってその色彩を変えてしまいます。
人間の肌でさえ、太陽の光によって染められてしまいますね。ところで、自然の摂理によって「染められる」ということと、人間の意識や技術によって「染める」ということとは、その意味合いにどんな違いがあるのでしょう。私たちが芸術を考える上で、その点がとても重要だと私は思います。
今回の作家である中川さんは、染めの技術を数十年という長い期間研究し続けておられます。その研究の中で、おそらく中川さんは「自分は一体ナニを染めようとしているのだろうか?」という問いを持続されたと思われます。その答えのひとつが今回のテーマである「宇宙のリズムに染まる」という作品を生みだしたのではないかと私は思います。それは、私たちが肉眼では見落としてしまうような自然界(宇宙)に存在する色彩を、私たちが認識できるような形つまり「染め」という方法で表現し、そこで「人間の心や精神が染まっていく」ということはどういうことなのだろうかという問いを私たちに発しています。そして又、染め上げたその作品を通して、宇宙に存在する地球という生命体のリズムに気づいて欲しいとも提案されているのでしょう。
私たちが親や社会からしつけや教育によって染められてきた人間性や価値観、そして自我を意識し、自立をすべく自分の力で染め上げてきた価値観を、この機会に今一度じっくり吟味しこれから後アナタが創り上げていく人生を「どう染め上げていくのですか」という、戦争体験者の作家でもある中川さんの切実な問いかけをここに読みとらなければなりません。夏の午後のひととき、スイカの汁が一滴シャツにこぼれたりした時など、
その「染まり」の不思議さにはるかな宇宙を想い起こしてみて はいかがでしょうか。 (評:ヤマダ)
                                           


二村 柚夕子

「森が育てる意識」

今回の[森が育てる意識]というテーマは
私が常に世の中に提案していきたいことの一つです
人間は自然の一部として
身近な森やそこに住む生きものたちと共に存在しています
人間が森から学ぶことは沢山あります
個人が自分の生き方の意識の根を伸ばしていく上で
森はとても参考になります
私は木を観るとき、それを人間に例えます
木は土の中で根を張り、自分自身で立っています
根の部分は木の精神だと思います
自然のサイクルの中で
木は人間や木に住む生きものたちの役に立っています
私たちは自分にできる役割が何かを
木から学ぶことができると思います
私の作品が
そのきっかけになればとてもうれしいです
私が
のん木ギャラリーを選んだことに関しては理由があります
このギャラリーでは作家が観る人に対して
作家の哲学を作品と共に提案してこそ芸術ではないか
という考え方をしているからです
私は新しいギャラリーのあり方に共感しました

1999.3.1 二村 柚夕子


「森が育てる意識」

1999年という世紀末の年も、早や3ヶ月が過ぎ去ろうとしています。20世紀という年が、「地球」という生命体にとってどんな100年であったかは、私たち一人一人がじっくりと考え直すべきテーマだと思います。
自然や環境の危機について、声高に叫ばれる昨今ですが、私たち人類の存亡について真剣に語られる声はそんなに多くはありません。人類が今のように、欲望の充足こそが幸福だというような身勝手な幻想に突き進んでいく限り、他の自然たちよりも先に滅びていくことは明らかなことでしょう。なぜなら、人類
以外の生きものたちは、地球と共に呼吸して調和しているからです。
さて、自然の生きものたちのフィールドに立って、いつも私たち人類に、「地球に住む生きものたちとの共生」を提案しつづけている二村さんは、今回の作品展でも芸術家としての役割を果たそうと、新たな提案を私たちにしています。それはまた彼女の提案が彼女だけの問題ではなく、私たち一人一人の問題だということを、観る人の意識を作品に参加させるという方法で試み、私たちにとっての芸術の領域を身近なものへと拡げています。遺伝子研究の分野では、地球上の生命体にはどれにも一つだけ同じDNAが存在していることが証明されています。この発見は人類にとって実に意義のある発見だと思います。
世界のあちらこちらでは動物たちや木や花とコミュニケーションのできる人間がいると聞きますが、それはなにも不思議なことではなかったのです。むしろ、
自然の生きものたちは人類と共存しようと、いつもメッセージを送り続けているのかもしれません。
それに気がつかないのは私たち人類の傲慢な無知のせいなのでしょう。
二村さんはそれに気づいた人間として、また芸術家として、私たちに自然の生きものたちとの共生を提案しつづけています。彼女はそれにはまず彼らと素直に向き合い、彼らの声をよく聞くことが大切だといいます。
数年前より子供の造形クラブ、知的障害者の授産施設、学習障害児のグループなどで、造形を通して芸術の指導をしてみえるそうです。特に言葉という伝達の道具がうまく機能しない関係性の中にあって、人と人が通じ合い、喜び合い、助け合う意識を学ぶために、芸術がいかに重要な役割を果たしていくかを
いつも実感させられるそうです。
かつて二村さんが彼らに「生きてることが楽しい人?」「自分のことが大好きな人?」という質問をしたことがあるそうです。結果は、全員が一斉にうれしそうな顔をして手をあげたそうです。
私はこのお話しを伺って、とても考えさせられました。私は彼らのように素直に手をあげられるだろうかと。
自然の摂理の中にあって、私たちも森によって育てられている意識があるということに気づき直し、二村さんの作品から、森の生きものたちが意識を持って
生きている姿を素直に学び取る必要があるのではないでしょうか。 (評:ヤマダ)


安藤陽子
日頃の視点から


それほど遠くには行かないけれど

そのために多くの時間なぞ

割けられる筈はないけれど

日々のささやかな感動を

刻んでゆくことが出来れば、と……

さりげなく

それでも生きている足跡を

残して置きたいから



1999/10/1   安藤 陽子


「日頃の視点から」 

     
    
世紀末のせいでもないのでしょうが、近ごろ、いわゆるモラルでは計りきれないというよりは、モラル以前の身勝手な近視眼的事件が横行しています。金ほしさの殺人やうさ晴らしのための暴力、利己的快楽だけのための犯罪など、数え上げればきりがないほどです。
これらの事件は、その多くが都市という人口過密地域で起きています。都市という空間は、果たして人間の何を変化させてきたのでしょうか。都市や情報過密社会が人間にどんな悪影響を及ぼしているかは、専門家の分析に任せるとしても、私たちもそれを自分の問題として、今一度冷静に考えてみる必要があると思います。モラルとは何か?自分の持っているモラルは果たして正常に機能しているのか?都市とは何か?過密情報を自分がどう取捨選択しているのか?など、この機会に見つめ直してみてはいかがかと思います。
また、台風や地震など、自然の当たりまえの循環という力の前に、人間の考えた人工的空間が、ものの見事に敗れ去っていく現象もつづています。文明は
確かに発展しつづけているのでしょうが、その直線的な進歩がどこまで許されるのかは、すでに自然が答えを出しているのではないかと私には思えます。
人類以外の自然は、循環するという当たり前の時空間のなかで生きています。私たち人類も地球の構成員として、循環の中に生きているはずなのですが、
私たちは、自分という存在の、一体何が循環しているのかということについては、余りにも関心が薄いような気がします。
いま、地球の歯車が、人間の手によって狂い始めています。自然の一員である人間として、いま自分が、何と共生し、何を循環させて生きているのかをもっと考え、反省すべき時が来ているのではないかと思います。さて、今回の作家安藤さんは、建築という仕事に携わりながら、文明の落とし子である建造物の中に、人間が自然と共に循環できる空間とは何か、また人工空間の中にあって、人間が呼吸し存在している場所とは何処なのかなど、特に、日頃私たちが見落としてしまうような場所を探し当てることによって、それを写真に収め、芸術家としての提案をしてみえます。
安藤さんの写真からは、日々の暮らしの中で、うっかりしていると見落としてしまいそうな、なにげない道ばたや、陽の当たらない場所にも、自然の生命の循環と共に生きている人間の息づかいを感じ取ることができます。癒しのために、わざわざアウトドアに出かけなくても、日頃の視点を少し変えて歩いてみれば、
発見できる自然の息吹や人間の息づかいに出会うことができるということなのでしょう。
作品のタイトルにあるHOMEとは、どこを指すのでしょうか。それはやはり、私たち人間が循環の法則の中で、いつかは戻るべき心の中にある故郷のことなのでしょうか。 (評:ヤマダ)


渕上 優子

…… … 水の記憶 … ……

私もあなたも
薄い膜で被われることで一つの個体となり
その表皮の特徴によって他の存在と区別されます
しかし
“私”というものはその内部に存在しています

私たちの内部には
たくさんの粒子がぎっしりと詰めこまれていますが
この粒子は
常に薄い膜を通って外部と行き来しています

“私”は時々水に会いに行きます
川でも湖でも海でも水のあるところなら出かけます
水には
その存在を特徴づける表皮がなく色も形もありません
そこで“私”は直接水と接します
水は私の内部そのものとなり
川となって流れ湖となって深くたたずみ
海となって拡がって行きます

その経験がいつも私に
表皮の下の“私”という本質との
出会いの楽しさを思い出させてくれます

そしてその楽しさは
すべての人々が既に知っていることなのです

願わくば私の作品が
あなたの
“水の記憶”を呼び起こしてくれますよう
祈っています

1999/11/1  渕上 優子


 「水の記憶」

       
 いつの頃からなのか、世間では、老若男女を問わず「癒し」が社会現象としてクローズアップされています。「癒し」に関する書物やイベント、セミナー、カウンセリングなどが大流行し、社会装置としてそれなりに機能しつつあるようです。特に人口が密集する都市においてはその現象が顕著なようです。
確かに今日のような、自然の法則より人間の都合を重視した、欲望充足型の時空間やメディアによる過剰な幻想情報が、一定の自然のリズムで呼吸を刻む、生身の人間にとって、息苦しい圧迫感や実体のない強迫観念をもたらすことは否めないことでしょう。その状況に順応できうる人は良いとしても、多くの人々はその緊張の連鎖に耐えきれず、何らかの心身の病を背負ったまま生きているのが現実のようです。
治療を要する深刻な病に関しては専門家の方にお任せるしかありませんが、本来誰もが自立の課程で経験し、自らの力で乗り越えていくことの出来るような問題に関しても、癒しブームなどに翻弄され、お金をつぎ込むことによって受け身的に解決しようとする人が多いことには考えさせられます。
おそらく彼らは、自分の何が傷ついてそれをどう癒そうとしているのかさえ、自分の力では発見できないような育てられ方をされてきたのでしょうか。「癒し」である以上、癒されるはずの傷があるはずなのですが、自分の何が本当に傷ついているのかを、冷静に考えることさえも避けて通る人たちが増えているのでしょうか。
確かに今日のような、ストレスやイライラが蓄積されていくような都市のシステムは、もはや調整不可能なところまで来ているのかもしれません。
だからといって希望がないわけでもありません。
私は、芸術の存在がその役割をきちんと果たしていくならば、人間が生きていることの喜びや、自分の存在の意味を発見していくことに貢献できると考えています。世界中で、アートセラピーという方法論が取り入れられている所以も、その点にあると思います。 
さて、今回の作家である渕上さんは、芸術家として、身近な「水」という存在を取り扱うことにより、私たちに普遍的な提案をされていると考えられます。地球上の生物が水の世界から誕生したという説は、今や常識となりつつあります。生物のほとんどは水なしでは生存できません。ましてや人間はそのほとんどが水分で成り立っています。体内の水は汗や排泄物となって体外に放出され、いずれそれが海にたどり着き、蒸発し、雨となって降り注ぎ、山によって浄化され、飲み水となって再び私たちの体内に戻ってきます。
このように水は地球のシステムとして循環を繰り返しているのです。渕上さんの提案は、私たち人間も他の生物と同様に、この地球の循環の中に生きているということに気づき、表面的なものにとらわれないで、自分の内部にある生命の循環としての普遍的存在に気づいて欲しいということだと思われます。渕上さんの云われる「水の記憶」は、彼女固有のものではなく地球上のすべての生物に共通しているものなのだということでしょう。今や地球上の生物には、すべて
同じDNAが含まれていることが遺伝子工学の研究で明らかになっています。そうならば「水の記憶」はすべての生物に存在していることになります。
そのように考えてみれば、自然との共生とか環境保全などという叫びは、人間がまだ「水の記憶」を忘れ去っていない証拠だといえるのではないでしょうか。私は渕上さんの作品から、水にも精神があるということを学んだ気がします。水が人間を生かそうという意志を持って循環しているのだと考えなければ、人間は死滅していたと思われるからです。
これらの作品に向き合うことによって、あなたの内で眠っている「水の記憶」がよみがえり、「水の精神」によって生かされている自分を発見できるなら、それが最もすばらしい「癒し」になると私は思うのですが、いかがでしょうか。 (評:ヤマダ)


1999 のん木ファミリー作品展

「私の考える自然」

のん木ギャラリーも無事に2周年を迎えることができましたこと
みなさまに心より感謝しています

開設以来 現在まで延べ37名の芸術に関わる方たちに
有意義な役割を果たしていただき
本当にうれしく思っています
非営利というあり方や 作品見聞録の作成 ワークショップ
HPの更新 新聞への広報 展示の準備 など
正直申しまして 毎回の準備が
こんなにも大変だとは思いもよりませんでした
しかし
のん木ギャラリーの芸術に対する考え方や姿勢を
理解し協力してくださる方も徐々に増え
貴重なアドバイスやお手伝いを申し出て下さる方が現れてきたことは 
なによりも有り難いことです

芸術の目指すところは
みなさんの内に潜んでいる「普遍的な精神」なるものを
美術・音楽・演劇・文学などの方法で世の中に提案していくことです
その結果 作品と向き合う人々が
彼らの内にあるその精神と出会うきっかけとなる
大切な役割を果たしています

西暦2000年を迎えるにあたって
地球という一つの生命体の危機が叫ばれています
私たちも地球を構成する一員として無関心ではいられません
自然とは何かを観念ではなく
自分の存在の問題としてとらえ直す必要があると考え
今回の作品展を企画いたしました

それぞれの出品者が
真面目に考えメッセージを込めて創作した
これらの作品群が
みなさんの内にある「自然なるもの」と響きあい
新たな発見につながることを
心より願っています


1999/12/1  ヤマダノンキ

(どうぞご感想・ご意見をお寄せください)


 「私の考える自然」   
    

1900年代という人間の世紀が、あとわずかで、その役目を終えようとしています。この100年が、人間やその他の存在、また地球そのものにとってどんな意味を持ったかは、現在を生きる私たちも少し考えてみる必要があると思います。
立場が異なれば、意見や考えが違うことは仕方のないことだとしても、地球環境が人間のエゴによって汚染されつづけていることは、みなさんの共通認識としてあると思います。汚染と裏腹に、人間が得てきた何らかの恩恵を否定するつもりはありませんが、このまま人間の都合で地球を汚染しつづけていけば、地球に手痛いしっぺ返しを喰らうのは目に見えています。
ここ数年、やっと世界的にこの人間の自己矛盾の進歩に関して、議論や試行錯誤が始まっています。日本という現状況に生きている私たちも、地球を構成する人間の一人として、この問題を自分自身に問いかけることが求められています。つまり、地球上の他の生物たちからみた客体としての人間観や、自分自身の存在を客観的に見つめることの訓練が、もっと必要とされているのではないかということです。
一般的に使われる「自然」という一つの言葉のとらえ方をみても、「自然を大切に」とか「自然に癒される」とか「地球にやさしい」とかなど、対症療法的に人間の側からの発想でとらえる身勝手さがあるように思います。
「自然」を人間と切り離したところで語られることが日常の中で多いからなのかもしれません。
本来、人間も地球という自然の法則の中で、一種類の自然な生きものとして存在としています。
そんなことは、もちろん誰もが分かっていることだと云うでしょう。しかし、あなたという存在の、「一体、何が自然なのですか?」と問われれば、案外、答えられないものなのです。身体的な感覚などは、自然な現象としてまだ理解できるとしても、あなたの精神の領域内で、一体、何が自然な精神性や意識のかという問いかけには、考え込まざるをえません。
自分の精神の内にある「自ずと然り」といえるものに気づくことは、とてもむつかしいことのように思えます。
しかし、本当は誰にでも気づくことの出来るものだと私は思っています。人間は自分の意志で生きていると思いがちですが、実際は、自分の力の及ばないものによって、生かされているところが多くあるのです。そして、そのことを少し真剣に考えてみれば、自分の内にある「自ずと然り」といえるものに、出会うことは
可能だからです。地球誕生以来、自然の法則は当たり前のごとく正循環を繰り返しています。
私たち人間もその循環の流れの中に生かされてきたのです。しかし、人間の欲望はそれを無視しつづけてきたように思われます。この世紀を振り返ってみても、人類の誕生以来、人間は、一体何を進歩させ、何を成長させてきたのだろうかと考え込んでしまうような悪循環を繰り返しています。しかし、人間のそんな
横暴に対しても、自然たちが忍耐強く循環を繰り返していることだけは確かなことです。
さて、今回のテーマを「私の考える自然」と提案しましたのは、そのような私の思いがあったからです。私は芸術を「普遍的な精神の表現」だと考えています。それを、言い換えるならば「自ずと然りの表現」だということができるかもしれません。芸術を、いわゆる「真・善・美の追求の表現」という流れの中に、もう一度位置づけ直すことは、今日のような時代にこそ、重要なことだと私は思います。
今回の作品を拝見して、作者のみなさんが、そのあたりを真剣に取り組んで制作されたことが伺い知れうれしく思います。また、芸術が尊重され、芸術のための表現形式が、今の社会に存在意義を持つことができるのは、芸術が、人間と自然たちに共通する「普遍的な精神の探求・提案」を指向しているからに他ならないからだと私は思います。今回の作品展を機会に、芸術というものに、真面目に楽しく関わろうという人々が増えていくことを夢見て、今年最後の、のん木ギャラリー作品展を締めくくりたいと思います。 (評:ヤマダ)


のん木ギャラリーメッセージ企画展

みなさまが
新たな年を新たな決意で
力強く迎えられたことと推察いたします

おかげさまで
のん木ギャラリーも3回目の春を迎えます

抱きつづけてきた「のん木芸術の森」創造の夢も
静かに第一歩を踏み出しました
前途多難な険しい道のりも
のん木の夢に集う人々と共に力を合わせ
楽しく確実に歩きたいと思います

2000年最初の企画は
森や自然をテーマに作品を制作している
身近な作家の方たちによる
「森のメッセージ」企画展です

5人の作家の方たちがメッセージする
森や自然の精神を静かに読みとり
この一年の歩みを
実り多いものにしたいと思います


2000/1/5 ヤマダノンキ


  森の自律    二村柚夕子

    二村は、森に住む生きものたちをテーマに、一貫して、
    自然の摂理から学んだことを、彼らの立場から表現しつ づけている。最近はさらに一歩踏み込んで、森そのもの
の自律の意識を表現しようと試みている。二村の発する
    メッセージは、いつも我々の潜在意識に訴えかけてくる   人間が創り上げた観念の世界の呪縛から、我々を解き放ち我々自身が地球の自律の中で、森と連動して呼吸して
いるという原点に我々を引き戻し、人間の精神・身体の
自律が、生を意味あるものにする上で、いかに大切な
ことなのかを森から学ぶことで提案しつづける作家である。 (評:ヤマダ)



     森と連なる時の流れ  中川和幸

   中川の表現する世界は、いつも我々の意識を太古の世界に
    まで引き戻す潜在的な力を持っている。
    それは人類が発生する以前の地球誕生のときまで遡る。
    高知の海辺に近い山中で育った中川は、幼い頃から、いつも
    永遠の彼方からやってくる、あの波の満ち引きや、それに呼応
    する森たちの呼吸を、五感を通して潜在化してきた。
    その大きな“とき”の流れの内で、人間がこの宇宙のどこに
    位置し、何を生きているのかを、模索しつづけ、我々にそれを
    意識できるよう問いかけつづけている作家である。 (評:ヤマダ)



  
             大いなる森  荻野佐和子

   荻野は、地平線に遠ざかる風景を、心象的に表現しつづけている
    作家である。設楽の山の中にアトリエを構え、制作をつづける
    中で、父の死に出逢う。死というあたりまえの自然の摂理に
    翻弄されそうになったとき、森が静かに荻野に語りかけたという。
    「受け入れるのだ」と。大いなる自然のやさしさが、人間の
    生きる力を無条件に支え、無償の愛で育んでいるという事実に
    気づくことによって、荻野が観る遠ざかる風景は、我々の
    こころの中に近づいてくるのであろう。 (評:ヤマダ)





              循環する森  井上まさじ

   井上は16年前名古屋を離れ、札幌郊外の山中でアトリエを
    構え、制作に没頭している。井上のテーマはいつも生命ある
    ものの“死と再生”が核となっている。死へのあこがれと恐怖が、
    いつも自分の内奥から湧き出る何ものかによって、克服されて
    いくという繰り返しの中で、北海道の自然の摂理に出逢う。
    森に繰り広げられる生命の循環に、人間のそれも、同じ当たり
    前のことであることに気づいたという。生きようとする自己と、
    死という循環を繰り返そうとする摂理の中で、井上は森と
    対話しつづけている。 (評:ヤマダ)






            静を刻む森  古井戸芳生

   古井戸は、若い頃から“静と動”にこだわり、作品を制作して
    いる。現在は、恵那の山中にアトリエを構え、森の静寂の中で
    陰陽五行や日本のアニミズムの精神を研究している。
    夕日が当たりまえのように沈んでいくとき、訪れる静寂の闇の
    中で、森が発し始める生命の営みの動きは、古井戸の意識を静寂
    の内奥に、また彼の潜在意識を意識下に引き出そうとする激しい
    エネルギーに包まれるという。我々が深い眠りに入り込もうと
    するとき、心臓は激しく鼓動し、我々の潜在意識は明晰に活動し
    始めるということを、気づかせてくれる作家である。 (評:ヤマダ)




二村柚夕子

地球に届けられた森の芸術


幼い頃から私に生きていることの
喜びを与えてくれるものは
太陽や風や水や土であり自然な森の世界です
人間が誕生する以前からある
このような地球に届けられた生命の世界を
創作というカタチで有機的なものにすることは
人間のカタチが存在することと同様に
私には大切なことです

このことは
私自身の精神の元の部分につながる
メッセージという行為であり
人間として日頃から意識している事です

人間は、地球の外側から視た場合
とても小さな存在でしかありません
地球は宇宙の一部として
生かし生かされ、循環しています
地球の森に住む生きものや人間も同じです

私は、自然界の生きもの達や自然美に励まされ
地球に届けられた森の芸術から学んだ意味を
私なりにメッセージしたいと思います


2000/3/1  二村柚夕子


 「地球に届けられた森の芸術」 

     
近頃、いろんな分野の方たちとお話しをする機会が増えたのですが、その中で、いつも話題に上ることがあります。それは、私たち日本人のモラルが、今日、なぜこんなにも崩壊してしまったのだろうかというテーマです。文明が発達し、社会システムや住環境が変化するにつれ、ものの見方や考え方、人間観や人間関係などのあり方が、良くも悪くも変わっていくことはあるでしょう。また、モラルを時代に対応させ弁証法的に認知させていく必要があることも理解はできます。
私は、モラル即ち道徳・倫理というものは、本来人間が社会の一員として、また、人としてどう生きるべきかという哲学の上に成り立っている考え方だと思います。
ご存じのように、最近、いわゆる従来のモラルでは理解しがたい事件が多発しています。それが何故なのかということは、私たち一人一人が大人として考えてみる必要があります。
多分、それらの現象を解明する糸口はたくさんあることでしょうが、私たちに今求められていることは、果たしてモラルとは何か、自分が人間であるということは一体どういうことなのかという基本的な問いかけなのではないでしょうか。この基本的な問いかけを、情報という幻想の波に飲み込まれないで、一人静かに
考えてみることが、今日とても求められていると思います。
私たちが人類の一員として産まれた以上、人間とは何か、生きるとは何かという問いから逃れることはできません。だからといって、なにも悲観的になる必要もありません。なぜなら、それらの答えの糸口として、昔から哲学・宗教・芸術などの人が生きるための道しるべが、産み出されてきているからです。中でも、
私たちに身近な芸術は、とてもよいきっかけになると私は思います。
しかし、私たち日本人が、なぜか芸術というものを、自分とは関係のない、とても近づきがたいものだと考えてしまう傾向にあることは残念なことです。そこで
私は、「芸術」というものを「より多くの人に共通するであろうと思われる、真・善・美というものを、表現という行為で追求したもの」だと考えてみれば、とても
わかりやすいと思うのです。言い換えれば、地球を含めた宇宙には、すべての自然とその一部を成す人間に共通な、生と死という循環の中で存在する真理のようなものがあるという前提に立ち、それが一体何なのだろうかということを、自分なりに考え、それを表現し、提案していくことが芸術だといえると思います。
そして、その存在に気づくことは何も難しいことではなく、本当は誰にでも可能なことだと思います。なぜなら、身近にある芸術作品たちは、私たちにそれを気づかせてくれるための装置として、役割を持って存在しているからです。
さて、今回の二村さんは、創作活動の中で一貫して、それを私たちに提案しつづけている作家です。彼女は、森の空間に展開される、自然の芸術の意味を、あえて森のいのち達の側に立って、私たちにメッセージを送りつづけています。彼らといつも静かに向き合い、彼らの表現から学び取ったことを、私たち人間にも共通する真理として捉え、わかりやすい形でその大切さを表現し提案されています。
作品からは、私たちに対する、森の呼びかけが聞こえてくるような気がします。それぞれのタイトルは、私たちの意識を自然世界の不思議な真理に誘い込もうとしているようにも思えます。それは、私たちの中に潜在的にある、自然宇宙に連なる意識を呼び起こして欲しいという願い、また、自然や森のいのち達は、
それをあたりまえの真理や善として、美をもって人間たちに対してメッセージしているのだという、二村さんの芸術表現なのでしょう。
二村さんの人間としての芸術活動を、私たちは静かに受け止め、生きる意味やモラルを再構築したいものだと思います。これを機会に、いつか森へ出かけられたとき、森には地球に届けられた芸術が存在し、あなたのために森がとても大切なメッセージを送っているのだということを、意識されてみてはいかがでしょうか。
 (評:ヤマダ)


安達敬子

内なる発芽(sprout)

台所の使い忘れた野菜たちから
芽が出てきたものが今回のモチーフです

日常、なにげなく見ている料理素材の野菜たち
食べ物という視点を外し違う角度から観察してみると
意外な美しさが見えてきます

土も水もなく太陽の光さえも届かない台所の片隅で
出てきた小さな芽
そこに秘められた大きなエネルギーを
表現したいと試みてみました

小さな芽から立ち上がる大きなエネルギー
それは光の糸のように宇宙の果てまで伸びています

あなたが宇宙の闇に光を当てると
なにかの拍子にそれがフッと見えてくる

そんな世界にこころを遊ばせてみませんか?


2000/4/1  安達敬子


「内なる発芽(sprout)」

         
21世紀を目前にしているからという訳だけでもないのでしょうが、最近、特にメディアでも取り上げられ、議論されているものに、日本が世界との関係の中で、今後どのような哲学や価値観をもって生きていったら良いのだろうかということや、また我々が人間として何をどのように考え、何をどのように実践していったらよいのかというようなテーマがあります。
景気の低迷が長引いたり、権威失墜の犯罪が多発したり、モラルを逆なでするような事件が連日のように起きている現実にあっては、確かに誇りや自信を
失い欠けても不思議ではありません。年々自殺者が増加している傾向も、今日の日本の精神状況を反映した現象といえるかもしれません。もちろん世の中は暗い話題ばかりではありませんが、このような現実は、やはり他人事だと片づける訳にはまいりません。むしろ自分への問いかけとして考えなければならないことだと思います。
「生きていく上で、あなたの人生観やモラルはどんなものですか?」と尋ねられた時、「そんなことは大きなお世話だ」といって断絶し孤立していくような風潮も確かに存在します。しかし、社会の一員として生き、他者と共存していくためには、互いに考え学び合うことがとても必要とされる時代になったと私は思います。
先日、某新聞のコラムに、「あなたの好きな言葉は何ですか?」という問いに対し、いちばん多かった言葉は「知足」だったとありました。「知足」とは、字のごとく「足るを知る」ということです。その深い意味合いは、皆さんそれぞれが考えることとして、大まかに言えば「知足」とは「必要以上にむさぼるな」という意味になると思います。私は、今日の大人たちの多くが、この言葉を選んだということに、日本の未来が少し明るく開けたような気がしています。なぜなら、情報社会にあっては、人間の欲望は限りなく広がる可能性があり、それを自力で抑えることはとても難しいことだからだと思えるからです。
その中で、「知足」を多くの人が選んだということに、自らの欲望と対決しようという意志が読み取れるからです。あのバブル経済がはじけ、我々の多くが実感
したことは、おそらく、物質的な豊かさが必ずしも精神的な満足にはつながらないという発見だったと思います。つまり、こころの豊かさや精神的な豊かさというものが何かを、我々が真剣に模索し始めたということでしょう。
さて、今回の作家安達さんは、私たちがこころの豊かさや精神的な豊かさを考える上で、とても身近なモチーフを使い、わかりやすい形で一つの提案をされています。それは今日のような飽食の流れの中で、台所の片隅に眠る使い残された野菜たち、生ゴミとして捨てられた野菜たちを、必要がなくなった存在という視点ではなく、私たちと同様に生命あるものとしてよく観察してみると、そこにはまだ息吹ともいえるエネルギーが小さな芽を出して頑張っているという事実を、作品を通して明らかにされています。
悪条件の中でも生きつづけようとするエネルギーに、彼女はいつも感動するそうです。またそのエネルギーが一体どこから来るのだろうかと興味を惹かれるそうです。また、それはなにも野菜たちのことだけを言っているのではなく、私たちの内にある同様のエネルギーにも目を向けているところが大切な点です。自分では意識しない自己の肉体や精神の中に、確かに私たちを生かしつづけているエネルギーが存在していることはだれでも感じ取っていますが、日常の中で
余りにもそのことに無自覚に生きていることは反省しなければならないでしょう。
身体の自然治癒力という力以上に、私たちのこころや精神の内に於いても、困難な悪条件や苦悩に遭遇したとき、確実に生きようと芽を出しつづけているエネルギーがあるということを、前向きに自覚し直すことは、
あなたの新たな豊かさの発見につながると私は思います。また、芸術という存在が、それを気づかせてくれる大切な役割を果たしていることも、忘れないで
欲しいと思います。 (評:ヤマダ)


中川和幸

森の孤立

私の制作する部屋の窓からは雑木林が見える
若草色の葉が朝の光に透けて
青い空とのコントラストをいっそう美しくすがすがしく見せている
部屋を出て辺りを散策すると
雑木林や道端に野の草花を見ることができ
時折バサバサという音とともに鳥の声が聞こえる
まだこの辺りには都会の中でも
静かに自分と向き合うことのできる自然が残されている

私は高知という辺境の地の
背後に深々と青い山々が連なりあった麓の
小さな漁村で生まれた
海や山や森が幼年期の私を育み特に森は私の一部であった
毎日の散策が当時の感覚と遠く重なり合う

数百万年前に人類はアフリカの森の中で生まれ
地球上の各地域に移動し川辺や海辺の森の中で生活しつづけてきた
人間が現在のような都市部での生活に移行したのは
わずか2〜3千年前のことである
そして産業革命以降は目覚ましい文明の発達とともに
都市へ人口が集中するようになった
それと共に人間の手によって失われた森は多い
云うまでもなく森と人間の関わりは深く
森は地球や人間に対し大切な役割を果たしてきた
現在森の失われる速度は以前にも増して速い
ある人類学者は未来の地球や自然にとって
人類が存在しない方が希望が持てるとまで云っている
つまりそれは
もはや人間が自然界から孤立しているという意味だと思う
この現実の中で人類の知恵によって森を蘇らせ
森から得られた知恵によって
人類の今と未来を確かな眼(意志)で見たい
そう考えながら制作している


2000/5/1     中川和幸


「森の孤立」

芸術が、この世に存在しつづけてきた意義や、芸術が、人間にどんな有意義な役割を果たしてきたのだろうかということを最近考えています。というのも、先日のある新聞のコラムで知ったことですが、みなさんもご存知の、チンパンジー「アイ」が人工授精で出産をした記事を読んだからです。
中でも、認識を新たにしたことは、チンパンジーが、実はサルではなく98%もの人間と同じ遺伝子レベルを持つヒトだという事実です。「アイ」が京大霊長類研究所の研究で、言葉や数を認識し訓練によって道具を使いこなすということは、ある程度まで知っていましたが、98%もの我々人間と同じ遺伝子を持っている事実には正直驚いています。
500万年前にヒトとチンパンジーは分化したと云われているそうですが、そのとても長い期間の中で、人間と「アイ」を区別してきた2%のものは何であろうかと最近の私は考え込んでいます。数百万年という人間の進歩の歴史の中で、「ヒト」を「人間」たらしめてきたものは何なのでしょうか。
最近になって、地球上のすべての生命体には一つの同じDNAが含まれているということが明らかになっています。この事実の前に、私たちは「自分が人間であるということはどういうことなのか」という特性を考えざるを得ません。動物の中でも、生まれ落ちてから自立するまでの時間と手間が一番かかるのは人間だといわれています。成人だからといっても、そのことが即ち自立していることにはなりません。その意味でも、人間が他の動植物より優れているとは私には
思えないのです。
人間は文化を生み出し、進歩していく存在だといったところで、自己防衛本能を逸脱した戦争や殺人などを繰り返す歴史、また、最近のモラル以前の利己的な行動が横行する社会現象などは、一体人間の何を物語っているのでしょうか。芸術や宗教について考えてみても、芸術や宗教が哲学の表現として機能し、
人間の精神の進化に貢献してきたならば、自然環境や社会はもっと成熟していたかもしれません。美の観点からいっても、自然美の方が芸術美より、人間の生存に有効な意味を持ってきたといえるでしょう。
今後も、私たちが人間でありつづけようとするからには、一体何をどのように考えていけばよいのでしょうか。それには、まず人間以外の生命を、自然という
観点からではなく、人間と同じDNAを持つ仲間であるという存在認識を持つことから始めなければならないかもしれません。云うまでもなく、この地球上には
自然の摂理に従って生きている、人間以外の生命が無数に存在しています。
特に、森の存在は人間と大きな関係にあり、我々が彼らに支えられ生かされている事実は紛れもないことです。にもかかわらず、人間の無知と欲望は、大切な森を破壊しつづけ、自らの生存を危機にさらしつづけています。
さて、今回の中川さんは、このような人間の歴史と森の現実とを、芸術家としての立場から危機感を持って表現されています。彼の指摘は、森を破壊し自然の摂理を狂わせていくことが、地球上における人間の存在を自然の摂理から益々孤立させ、人類が森よりも先に滅びることへの警告です。また、それがいかに愚かなことかということに気づいて欲しいという呼びかけでもあります。森を孤立させ森の循環を破壊すればするほど、人間の内にある自然性も破壊され、人間同士の関係も孤立していくという指摘ではないかと思います。
作品の中央に位置する寒々とした森のモティーフは、宇宙に連なる豊かな大地の上で、自らの愚かさに打ちひしがれる、未来の私たち自身の姿なのかもしれません。しかし、現在のような自然の循環が危機にさらされている状況にあっても、森や人間以外の生命たちは、自然の摂理に従って必死に生きようとしています。本来、私たち人間も彼らと同じような生命力や精神力を持っているはずですが、なぜ人間だけが自己の欲望や空虚な幻想に振り回され、過ちを繰り返すのでしょうか。それがチンパンジーと人間を隔てる2%の遺伝子のせいなのかもしれないと云えるでしょうか。
この機会に人間性とは何かということを一緒にじっくりと考えたいものです。芸術の存在が、それを考える上で大きな役割を果たしてくれることを私は心から
願っています。 (評:ヤマダ)


芸術の森MAFY(マフィー)を一緒につくりませんか?

いつものん木ギャラリーに関心を寄せていただき
ありがとうございます
兼ねてより抱きつづけてきました「芸術の森MAFY創造」というのん木の夢が
いよいよ第一歩を踏み出しました
MAFYとはMessage Art For Yourselfの略です
森の予定地は現在探索中ですが
三重県の北部あたりにと考えています
まだプランが動き始めたばかりでスタッフも力も足りませんが
この夢は一人でも多くの方が参加されることに
                   意義があると考え荒波に船出をいたしました
今回のん木ギャラリーの場を借りて
イラスト   中根幹夫                 MAFYのプレゼンテーションを行いたいと思います
みなさまのご意見・ご希望・アイデアなどをお聞かせいただき
MAFYの創造に生かしたいと考えています
この機会に MAFYを通して文化や芸術に関わることで
人生の幅を広げるチャンスとされてはいかがでしょうか

別紙のアンケート用紙にご協力いただければ幸いです
尚6月17日(土)PM7:00〜9:00に「芸術の森の夢を語る会」をのん木BARで開きます
みなさまのお出でをお待ちしています

2000/6/1 MAFY代表 ヤマダノンキ


― ふと 描くということ ー

自分の中に全てのものの命を
そして 全てのものの命の中に
自分自身を見ることが出来る者は決して悲しむことはない
……………………
上の言葉は
あるとき、本の中で見つけた一節ですが
絵を描くという行為の秘密はここにあるかもしれません
日常の中で、何気なく絵を描いてみようと心動くときがあります
絵を描くときは、たった一人ですが
そこに、孤独や寂しさはありません
たとえ
孤独や寂しさをテーマにしていたとしてもです

そこでは
あなたは宇宙と一体であり、あなたの中に宇宙があります
ここにある作品は
何の制約も無く、日常のちょっとした余暇に
自由に絵筆をとって描かれた
私の絵画クラブの4人のメンバーのものです
2000/7/1  渕上優子

櫻井正代    遥か

     

熊澤恵子  宇(そら)

      

古田島幸子   羽根ぼうきとやかん

     


    
  Y.H   想い


ふと、描くということ

 先日、ある新聞のコラムで面白い記事を発見しました。今の日本を称して、「大人も子供も、日本人は被害者意識にとらわれすぎている。そしてその反動として、多くの人が精神的にも肉体的にも暴力的になっている」というような趣旨の記事でした。ある著名な作家のその発言に、私は同感です。
世間を賑わす少年少女たちの動向も、私たち大人といわれる者たちの言動と、何ら隔たりはないと思います。むしろ彼らの方が、純真なるゆえに社会の矛盾を指摘して、直接的に行動をしている点では、たとえそれがルール違反であったとしても的を得ているとさえいえます。「今の若い奴は……」的発想は、いつまで繰り返されるのでしょうか。「今の大人たちは……」という少年少女たちの心のつぶやきの方が、社会にとっては有意義であるような気もします。自信のない大人が増えているといわれています。裏返せば、それに連動して、自信を持たせてもらえない子供たちが増えているといえます。
果たして、私たち大人は、子供たちに何を伝えていく役割があるのでしょうか? 教育やしつけという名のもとに、みなさんは何を大人として伝えてみえるのでしょうか。
子供に人権があることは自明のことでありますが、主体的に社会を判断するという訓練が未熟な子供たちに対し、人権の対には社会的な責任があるということを伝達しないまま、過保護に育てているのではないかという懸念を感じます。自立や自律を阻害するという点では、過保護や過度の関心は、ある意味では
子供たちに対する暴力的行為だといえるかもしれません。
それは、私たち大人の多くが持っている被害者意識というものの裏返しかもしれません。 
同様に、自分に自信がないという大人たちが増えているという現実の表れかもしれません。
これらは決して他人事ではなく、社会を構成する私たち一人一人に問いかけられている問題です。
私たちは大人は、いま一度、どんなことに自信がないのか、どんなことに傷ついているのかということを、幻想の中ではなく、現実の中で冷静に検証し直してみる必要があります。
芸術の果たすべき役割に携わっている私も、これらについては日々考えています。
みなさんのご意見は、それぞれにおありでしょうが、私の中で一つだけ確信があることは、日本人が自然の摂理と遊離したライフスタイルを追求したあまり、
自分の中にある自然のサイクルを退化させ、物質的豊かさイコール人間的豊かさという幻想を抱きつづけてきた結果だということです。言い換えるならば、
天賦のいのちを、まず当たり前に感謝するという視点を欠落させてきたからだといえます。それは、芸術や哲学の教育を疎かにしてきた結果ではないかともいえます。また、芸術や哲学や宗教が、その役割をしっかりと果たしてこなかったからだともいえます。芸術が、誰の中にもある普遍的な精神に対し、命あることにまずOKを出すことへの提案をしつづけて来たならば、もう少し、社会は節度をもって発展してきたように私には思えます。
美術教育や音楽教育などが情操教育の名のもと、こんなにも熱心に行われている国は日本くらいのものです。社会的なその成果のほどを私は期待したいのですが、なぜか不安がよぎります。
さて、今回の出品者は、絵画クラブの4名の方たちです。「ふと、描くということ」のテーマにあるように、私たちは、日常の何気ない行動の中で、自分の感覚器を通して、まさに、ふと意識を立ち止まらせるものや事象に出会います。この「ふと」の正体は一体何なのでしょうか。おそらくそれは、誰にでもある潜在意識の中の、何かに訴えかけるもののように思われます。その何かとはまさに普遍的な意識につながるものに相違ありません。ここに芸術の扉が用意されているのです。櫻井と熊澤は、
自然の風景の奥に、自分の無意識とつながる宇宙の摂理を読み取り、古田島は、日常の事象の中での
自分の存在意義を問い、Y・Hは民族を超えた人間愛の可能性を表現しています。この機会に、みなさんも「ふと、描くという」衝動に駆られてみてはいかがでしょうか。 (評:ヤマダ)


感 謝


やっぱり、少しずつ、

みんなとかかわって生きています。

みんな本当にありがとう。


2000/8/1  勝山 都






「感謝」

             
たった2週間あまりの生命のために、数年ものあいだ、セミたちは土の中でいったい何を考えてきたのだろうか。 今年の夏は、こころなしかセミの鳴き声に
元気がないような気がします。
ひんぱんに起きる地震のせいなのか、雨が少ないせいなのか、そのわけを私が知る由もないが、日本をはじめ、地球が刻々と何か悪い方向へと変化していると感じるのは私だけなのでしょうか。
人間以外の生命たちは、自然の摂理の中で、環境の変化に対応しながらも、地球の自律と共に循環を繰り返しています。 おそらく、我々人間だけが、自らの中にあるその循環性に無頓着であり、自然の法則を破りながら、自己矛盾の混沌の中へと突き進んでいるように思われます。
それが人間の宿命ならば甘受せざるを得ないのでしょうが、科学の力によって、地球上の生命体にすべて同じDNAの含まれることが立証された今日、そのことが、私たち人類の意識や行動にどのように関わっているのかということを、解明する義務と責任が、自然の側から人類に求められているように思います。
人類の進歩が何を指すのか私にはわからないが、文明の発展の名のもとに、今後も人類の都合で進歩を追求していくならば、人類がその循環からはずれ、衰退していくことは想像がつきます。
特に日本においては進歩が美徳の時代は、もう終わったという気がします。IT革命による利便性の追求は、確かに人類の知恵として称賛に値するかもしれません。しかし、そのことが人間の存在価値の向上につながるとは私には思えません。むしろ、人間がそれらの技術に対応する能力のみを高めていくことは、
ある意味で、人を人間たらしめている無駄や失敗や、弱さを敬遠するような差別意識の増長につながっていく懸念を感じます。
確かに、人間にも環境に対応する能力が備わっていますが、それにも限界や個人差があると思います。
幻想は無限の可能性を夢見ることができますが、身体の機能は有限的だからです。
現代の日本社会の特徴として、神経症がよく取り上げられますが、神経症になる人の方が人間としてより自然で、個性的ではないかとさえ私は思います。
さて、今回の勝山さんは、当ギャラリー2回目の作品展となります。
2年前の「指の旅」では、指で描く作品の世界に彼女自身の過去を整理するような内的なテーマ性が見られましたが、今回は、とてもメッセージ性のある外的な世界が拡がったように思われます。
その間、彼女の指はカンバスの上を離れ、あちらこちらと自然と関わる旅を重ねてきたようです。
ずいぶんと痛めつけられてきた指も、旅の途中で出会った人々に癒され、また強くなっていった様子がうかがわれます。過去の呪縛を解き放ち、育ちゆく自身の未来を信じることの喜びを、タイトルや作品から読み取ることができます。彼女のその変化のきっかけが何なのかを推し測ることはできませんが、おそらく
旅の途中で、今回のテーマでもある「感謝」というキーワードに出会い、自然や生命あることのすばらしさに、こころから気付いた結果のように思われます。
私たちは、この「感謝」という言葉は知っていても、その言葉の意味や実践を自分の問題として捉えることがあまりないように思われます。 日常の中で、
「感謝しています」や「ありがとう」という言葉より、不平・不満・うらみを表す言葉の方が氾濫しているように感じるのは、私だけでしょうか。
ましてや、自然の摂理に対し、本当に有難いという感謝のこころを持たなければ、「自然との共生」などあり得ないのです。また、感謝なくして信頼関係など
築けないと私は思います。誰にも信頼してもらえないと嘆くよりも、素直に感謝のこころとかたちを実践していけば、信頼は自然に生まれてくるものではないでしょうか。 今もなお、自然の摂理は、人類の無茶に対し、まだ我慢強く私たちを見守っています。 今回の勝山さんが提案する感謝のこころを、自分と周りの人たち、自分と周りの自然とへの問いかけとして考え直す良い機会としたいものですね。 (評:ヤマダ)


長谷川康司

 「生 き る」

人が生まれて、生きる。生まれたから、生きてる?
そうだろうか?
生きる事を許されたから・・・
少し荒っぽい言い方だけど
0(零)から始まり、生命の起源を経てこの世に誕生する。
ミジンコや三葉虫、千年杉、あらゆる生き物のルーツのレールを
弾丸列車の様に駆け抜けてやって来る旅人の様だ・・・。
永い国境のトンネルを抜けると
そこは行きずりであった・・・?

真摯に考えてみます。
生きる事、生まれたこと、生かされた理由、逝かされるそのときまで・・・。

な〜んてね!
眩暈がしそうなぐらい、限りない偶然の産物である僕(やつがれ)が
これまた一期一会の真っ只中で
多くの旅人達に迷惑なんぞカケながら
「生きていてもイイですか?」と斜に構えながらも
甘えているのを許してほしい。    いつまでも!!

2000・9・10   長谷川 康司


「生きる」

                
先日の新聞に、私にとっては、とても後味の悪い記事が載っていました。ついに起きてしまったかという悲しむべき事件です。ご存知の方も多いと思いますが、それは、視覚障害者を意図的に狙った、お金目当てのひったくり暴行事件です。なんと今年だけでも数件起きているといいます。
しかも、またかというように、犯人が単独ではなく少年グループのようなのです。
若者の、大人や社会に対する反抗はいつの時代でもあるのですが、かっては、その矛先が自らよりも強いものたちへと向かい、また、純真さゆえの正義感で社会悪に対して反抗してきたものでした。
確かに今日の状況は、責任ある大人たちがモラルを崩壊させてきたことによる結果だということもできますが、
それにしても、今回のように赤子の手をひねるような卑劣な行為が、社会への反抗という枠外で、
しかも単に金が簡単に手に入るという理由だけで起きている現象は、私たち大人社会が自分の問題として
深刻に受け止めなければなりません。金が手に入りさえすれば、捕まりさえしなければ、という行動は、なぜか責任ある立場にある大人たちの社会にも蔓延しているような気がします。
日本における自由や個人主義は、その対となる規律や社会的責任というものを育てないままに、いわゆる
身勝手なミーイズムを助長してきた風潮があります。本来、規律や社会的責任というものは、法律などで強制するものではありません。教育やしつけのレベルで身に付けていくものだと思います。
いくら少年法を改正して罰則を強化しても、それは、抑止力にはなるかもしれませんが、根本的な解決への糸口にはならないような気がします。やはり、
「ヒトが人間として生きる」とはどういう事なのかを、大人である私たち一人一人が、生き様を通して見本を示していくしか方法がないと思いますが、残念ながら、今の日本は教育やしつけに自信を持てない大人や親たちが増えています。
人の成長が、マニュアル通りにいかないことも、多くの大人はわかっているはずです。しかし、何を基準にしたら良いのかがわからないまま、金や物やブランドや学歴に奔走し、情報に翻弄され、一生懸命になるが故に自己矛盾を広げ、こころの病に侵されていくのが現実のようです。
さて、今回の作家、長谷川さんのテーマはまさに「生きる」です。
現代の日本にあって「ヒトが人間として生きる」ということはどういうことなのかを、自らに問いかけている作品です。彼の表現する、絵本の中に出てきそうな幻想的なモチーフは何を物語っているのでしょうか。人は誰でも老いを迎えます。その事実を客観的にではなく、自分への現実として捉えたとき、今まで人間として何を生きてきたのか、今後何を生きようとしていくのかが問われてきます。画面のおばあさんたちが押す乳母車には、赤ん坊の姿はなく、死出の旅に向けて、一体何を何処へ運んでいるのでしょうか。
私が画面の中へ入り込み、自分の乳母車を覗き込んだとき、何が入っているのかが問われてきます。
幼いころ、誰もが夢みた幻想の世界。それはいつも創造力に満ち、楽しくて平和な世界がありました。
絵本や童話の表現する世界には、いつも民族や宗教や差別を越えた、人類や自然に共通の調和や平和とは何かという提案や生命への賛美があります。
幼い子どもは誰でも、その意味と重要性を純真さで理解しそれを記憶していきます。また、「三つ子の魂百まで」といわれるように、その記憶は生涯消えません。
逆の意味で、トラウマを背負った大人たちが増えているのは、なぜでしょうか。
もちろん、純真さだけで今のような世の中を生きていくことには無理があります。しかし、成功するという処世術だけでは、人間はおかしくなっていきます。その心のバランスがとても難しいといわざるを得ない時代なのかもしれません。そこで彼の提案する「え〜じゃないか」という、悩める者たちへの励ましは、ミーイズムとは違う意味での、一時的な精神の避難場所、自己を癒す言葉として捉えてみるならば価値があると思います。この機会に、「ヒトが人間として生きる」ということを考え直すことは、あなたが「生きる」主体としての自己に出会う良い機会となるのではないでしょうか。 (評:ヤマダ)


田村明楚

増殖する情念

私はいつも襦袢をモチーフに
女の情念の世界を追求して作品を創っていますが
今回は
偶然に出会った刺青を入れた若い女性の魅力に惹かれ
刺青をモチーフに青い情念の世界を
表現しようと試みてみました

その見事な彫り具合や絵柄には感服しました
彼女の背中に彫られた手相の絵柄は
実際の彼女自身の手相を模したものだそうです

有刺鉄線や鎖など
どう見てもタダモノではない危なさが感じられますが
実際にお話をしてみると
とても穏やかな大人しいあどけなさの残る女性です

また彫り師のあざやかな技術は
私を興奮させ
一気に撮影が進んだ一日でした

今回 この作品を創作したことにより
女性の情念の奥深さに
改めて恐怖にも近い畏敬の念を増殖させた次第です





2000/10/5   田村明楚

 


「増殖する情念」

20世紀最後のオリンピックが幕を閉じた。日本にとっては史上初という、女子マラソン金メダルが、選手のさわやかな笑顔と共に話題を独占している。今回特に、女子選手のメダル獲得が男子のそれを上回ったことは、今の日本が女性の時代になりつつあるといわれている現象と、どこかリンクするかもしれない。
少子化や受胎率の低下が、食生活や環境ホルモンの影響などを受けているにしても、
なぜか男性が弱くなっているような気もする。数年前あたりから、男性化粧品の売れ行きが伸びているという。
それがすぐに男性の女性化につながるという短絡は避けたいが、一体何を物語っているのだろう。オリンピックを少しだけTV観戦して感じたことがある。私は選手よりも応援団の観客たちに興味を持ったのだが、それというのも、彼らの多くが顔に鮮やかなペイントや派手なシールを貼り付けて、応援というよりはお祭り騒ぎのように熱狂している姿を観て、人間の原始の姿を垣間見たように感じたからである。
今でも、自然の力が圧倒的に支配する土着型の地域では、そこに住む民族が顔や身体に動物的なペイントを施し、狩をしたり求愛の印とする風習があるようである。その風習も都市文明化の中ですたれてきたのだが、今日の応援団に見られるペイントと、何か共通するものを私は感じたのである。しばらく流行した
「ガングロ」という自己表現とは違う気もする。いくら文明が進もうとも、人類だけが自然界の雌雄の関係を逸脱することは無理である。男性の化粧やペイントは、雄の孔雀が羽を広げた求愛のポーズにリンクしているのかもしれない。そこに存在するのは、本能的な美の世界なのだろうか。文明が高度化すればするほど、人間の本能的な美への欲求は、逆に高まっていくのかもしれない。
もしそうだとしても、女性の化粧に対するあの執着にも近い関心は、どこから生まれてくるのだろう。男の私にはそれを推し測ることは到底無理であるが、以前ある女性から耳にした話がある。「女は初潮が始まった辺りから色に目覚める」という謎めいた言葉であり、そして、「女は男のためよりも自分のために化粧する」ということである。私も含めて、女の化粧に心地よく翻弄されつづけている多くの男どもは、この言葉を聞いて妙に納得するであろうが、やはり、女心がわからないのは男の常であるような気がする。
さて今回の作家田村さんは、男の一人として「女とは何者か」という探求を、写真家として追及している一人である。おそらく、男には決して理解不能な「女の情念」の世界が、彼のテーマである。彼をここまで突き動かしているエネルギーが、果たしてどんな原体験から来ているのかわからないが、彼の作品展を数回
観た私には、田村さんが、女の本能だけが持ちえる生存のための美、つまり生殖を促すための美の演出を、女が自然に身に付けていくことへの不思議さに
興味を惹かれ、それを写真に少しでも定着させようとしているのではないかと思うのである。情念は意識されずとも自然に増殖していくものかも知れない。男にとってその対象である女を「美しい」と思うかどうかに個人差があることは当たり前だが、雌としての「女の情念」が生殖への美を演出し、雄としての男どもを
翻弄してきた歴史は否めないだろう。今回のモデルが身体中に施したTATTOOも、女の情念が演出する化粧と同質のものと思える。聞くところによるとこの
モデルも初めは足首だけにTATTOOをしたという。それはあたかも、女が初めての化粧の誘惑に駆られたとき、薄い口紅やマニキュアを施すのと似ているではないか。
女が自らの女を成長させていく過程で、男には理解不能な「女の情念」が存在していることだけは確かなようである。「男の情念」という言葉は余り耳にしないが、それがどんな形で表象してくるのかは一度考えてみたい。
写真家のアラーキーが男の側のエロスという幻想から女を解放するために、女をより無機質に撮りつづける手法に対し、田村さんの試みる、エロスという観念を女の情念の世界に有機的に定着させようとする表現は、男と女がその性差の本質を理解しあい、新しい関係性を見つけ出していくための、ひとつのヒントとなるような気がする。人間の情念という意味合いを、前向きにとらえるきっかけとしたい作品である。 (評:ヤマダ)


北山玲子

目の前にある贈りもの


人生について悩み、考えこんでしまうとき
ふと空を見上げて
私は月や星に語りかけます
「私はこの世で何の役に立っているの?」と

星たちはいつも無言できらきらと輝いているだけです

また悲しみや寂しさに出会ったとき
道ばたの草花に話しかけます
「あなたたちはこんな場所で悲しくないの?」と

草花たちはいつも気持ちよさそうに
風に揺れているだけです

まるで悩んだり悲しんでいるのは
人間だけだよ、と云いたげに……

いのちがあるというだけで
幸せなんだよ、と云いたげに……

私のぜいたくな悩みは
いつも彼らのおかげで解決していきます

目の前に沢山ある
自然からの贈りものを本当にありがたいと思います

みなさんは、どんな贈りものをもらいましたか?


2000・11・1 北山 玲子



「目の前にある贈りもの」

戦争の世紀といわれた20世紀も、あと1ヶ月で終わろうとしている。あたかも世紀末を象徴するかのような天変地異も続発した。英国のある科学者の計算によると、人類が文明の発展の名のもとに地球を汚染しつづければ、どう見積もっても、あと1000年で人類は滅亡するという。これは流行の宗教団体の世紀末論ではなく科学的データによる予測である。それを信じるかどうかは、個人の勝手であるし、1000年後のことなど知ったことではないといえばそうかもしれない。未来の人類や環境に、現在の私たちがなぜ責任を持たねばならないのかと逃げたくなる気持ちもわかる。
しかし、未来とは明日も1年後も1000年後も未来なのである。今のところ、私たちが100年後に確実に生きているという保証がないように、明日も必ず生きているという確証もないはずである。ならば、未来を信じるという点では、1年後を真剣に考えることが、1000年後を考えることになるのではないかと思う。
あれほどメディアを賑わせた「地球にやさしい……」は、案の定いつのまにか姿を消した。というのも、誰かに自分にだけやさしくしてほしい、という人々が増えているからであろう。他人や地球のことまでも考えられない、社会的に未熟な大人が蔓延しているような気がする。
自立や自律を獲得し得ないままの大人が増えているような気もする。
最近、世間では身勝手で社会的責任を放棄したような幼稚な事件や行動が多発している。「キレる」というのは、本来は、理不尽に対する忍耐の末の「堪忍袋の緒が切れる」のであって、単なる感情の爆発ではない。自分の思い通りに事が運ばないたびにキレているのは、大人とはいえない。
反対に「堪忍袋の緒を切る勇気が持てない」がゆえに自殺を選ぶ人が増えている現状を、一体どうとらえたらよいのだろうか。もちろん原因は様々であろうが、彼らやその予備軍に、今の社会システムが機能しなくなってきていることは、その数が年間3万人という数字を見れば明らかである。
自殺を思いとどまったある人の話がある。決意して森深く入っていったところに大きなブナの樹があったという。
突然そのブナの樹が話しかけてきた気がして、急に懐かしくなりそのブナに抱きついたという。何分か抱きついているうちに、いつのまにかブナの樹と話をしている自分に気づき、生きる勇気を取り戻したそうだ。
私はその話を読んで感動した。そのブナの樹が彼女に何を話しかけたのかも想像がつく。どんなに多くの人間の声よりも、ブナの声が彼女を癒し、生きる勇気を与えたことは事実である。
人工的な空間が支配的な都会においては、ブナに出会うことは出来ない。しかし、感覚を研ぎ澄まして見聞きすれば、自然の摂理はその姿を私たちの目の前に現している。山奥であろうと都会の真中であろうと、自然はいのちある限り生きつづけようとしている。どんなに過酷な条件のもとであろうと、道ばたの一本の草花さえも、その与えられた条件の中で生を全うしようと呼吸しているのである。そこにはいのちの力強さと美しさがある。
人間も自然な生きものであるから、草花と同じ力強さや美しさを持っているはずである。それに気づかないのはなぜだろう。人為的な情報の波に呑み込まれ
ネイティヴな精神が眠っているからだろうか。
今回の作家北山さんは、その点において、私たちをその眠りから覚まさせる作品を提示している。
そのテーマにもあるように、人間には真理を発見する力があり、それを自覚して行動すれば、目の前に展開する多くの自然の事象を、自分の存在に関わる
大切なこととして認識ができ、結果それが人間としての生きる意味の発見につながるのではないかという提案である。悩んだり苦しいときは、意識にとらわれないで、感覚を自然の側に預け、空を見上げて月や星と対話をしたり、草花や動物たちと語り合うことなどで、見失っている人間としての自我の精神を取り戻すことができるというものである。
少し足を止めて周りを見渡してみれば、そこには沢山の自然のいのちが必死に生きている。
しかし、それは意識しないと発見ができないのである。彼らから学ぶことは多いはずである。自然界を見渡せば、私たち人間が最も自立と自律が遅れているのは明らかである。この機会に目の前にある無償の贈りものに感謝し、彼らから人間とは何かを学び直したいものである。 (評:ヤマダ)


第3回 のん木ファミリー作品展

「もしも、わたしがサンタなら……」


おかげさまで、のん木ギャラリーも3周年を迎えます
作家として参加してくださった方
ギャラリーとして、ご意見ご感想をいただいた方
いろいろなアドバイスやカンパをくださった方など
みなさまに心より感謝申し上げます

のん木ギャラリーの活動も
世間において徐々に認知・評価されつつあります
のん木の夢である、芸術の森「MAFY」も
その実現に向け準備活動を開始いたしました
もちろん前途は多難に満ち満ちていますが
ひとりふたりと協力を申し出てくださる方もあり力強い限りです

未来の人々に意義あるメッセージを残してゆくためにも
芸術の森「MAFY」は必ずや実現する決意でいます

さて
20世紀最後のクリスマスがやってきました
クリスマスといえば
私たちはいつもプレゼントを貰うことばかり考えがちですが
今回は、出品者のみなさんがサンタになって
21世紀の人々に作品を通してプレゼントをする企画です

それぞれのサンタさんの姿やこころを想像しながら
そのメッセージを楽しんでいただきたいと思います


あなたも今年のクリスマスは、サンタさんになって……



2000・12・1   ヤマダノンキ


「もしも、私がサンタなら……」

          
ひとつの世紀をすべて生き延びられる人は、世界でもほんの一握りの人である。
ひとつの世紀の更新に立ち会うことの出来る現在の我々は、前世紀を省みる機会を与えられたという意味では、貴重な時を生きているのかも知れない。20世紀がどんな時代であったかは、メディアが連日のように取り上げているので、各自が自分の人生と照らし合わせて考えてみればよいだろう。
私が取り上げてみたいことのひとつは、何と云っても、交通や情報技術の進歩によって、時間というものに対する我々の感じ方や観念が超スピードで変化したことである。
数年前までは、一日かけて集めた情報が、今日ではインターネットにより数分で手に入る。便利になったものだが、逆に、余った時間を本来必要ではない情報収集に充て、それに刺激されて好奇心を増大させていくのだから、実際は一人では処理不可能な情報の波に呑み込まれているのである。しかし、一日が24時間であることには変わりはない。
人間がある程度までは環境の変化に対応できるということは理解できるが、それにも限界があるような気がする。人間の心拍数が、もしも常時150位を超えても平気ならば、スピード化も受け入れられていくだろうが、それは不可能だという気がする。もちろん、感覚器の反応や脳の記憶能力がスピードに対応して進化していくことは理解できる。しかし、それでも人間の心拍数が60〜70であるのは何故なのかを、考えてみる必要があるのではなかろうか。
人間の脳が情報処理によって創りだした幻想は、脳で処理することは可能かもしれないが、それに身体が順応していけるとは限らない。
そのズレが、今の社会問題としてクローズアップされている、諸々の病理的現象を産み出しているような気がする。もはや、バーチャルが拝金主義と結びついてリアリティを凌駕した感すらある。特に今日の犯罪における幼稚さや異常さなどは、とてもリアリティな人格を持った人間の仕業とは思えないのである。
少年法の改正や死刑執行などという刑罰を重くしたところで、何かズレを感じてしまうのは何故だろうか。
今、日本に住む我々は、「人間とは何ものか?」という基本的な哲学が問われているのではないだろうか。
いわゆる対症療法的な小手先ではどうにもならないところまで、病んできている思いが強い。すべての大人が、自らの人間としての存在価値を、冷静に真剣に問い直す必要に迫られている気がする。いつの時代も、自律能力が未熟だという意味では、犯罪を犯す子供たちに非はない。モラルや社会的義務を学び
取らせるのは親や大人社会の責任だからである。
個人という言葉の中には、公(パブリック)と私(プライベート)が両立しているという当たり前のことさえ認識できない大人が増えているのも問題である。例えば、子供の目の前で、赤信号を平気で無視する大人に、今の少年たちを批判する資格はない。
21世紀に向けて我々大人は、今すぐにでも自分の出来ることから始める必要がある。人間は一人では生きられない存在だということや互いに助け合い支えあって生きているという現実を、あらゆる角度から子供たちに伝えていく義務が大人にはある。身を持って真剣に伝えていけば、子供たちは自ら自律と自立を獲得していくができると信じることだろう。
それを阻害しているのは私たち自身だということを肝に銘じることだ。
「私なんか必要のない人間だ」と云って、自死する子供たちの何と多いことか。自死しないまでも、自律の力を阻害されたままで、大人の仲間入りをしてきた彼らの現在の反撃に対し、我々は何を提案すべきなのだろうか。
大人としての責任を果たす意味でも、大変な作業だがそれを考えねばならぬ。もはや遅すぎるということなどないはずである。
今回は、世紀末だからという訳でもないが、少し重苦しいことを書いてしまった。「人間は誰でも尊敬に値するものを持っているのだということ」に気づいてほしいという強い想いがあるからだ。
今世紀最後の作品展に「もしも、私がサンタなら……」を提案したのは、大人である我々の誰もがサンタとして、次世代を担う子供たちに、生きることの意味をメッセージという形でプレゼントできるのだということを伝えたかったからである。
願わくば、クリスマスが過ぎても、みなさんの心の中で「もしも、私がサンタなら……」と、いつも思っていただけたら、21世紀は、きっとあたたかな夢でいっぱいになるような気がする。
ジョンレノンが云ったように、夢かも知れないけれど、その夢を見ている者は世界中にいっぱいいると信じたい。
 (評:ヤマダ)




「芸術の森マフィー」にご協力を!



すがすがしい新年を迎えられましたか?

のん木ギャラリーの夢である
「芸術の森マフィー」の実現に向けて
ゆっくりと
準備が進んでいます

10年計画でとりあえずスタートします
今年は場所の選定と準備委員会の設立を予定しています

マフィーは既存の芸術の森の考え方を前進させ
もっとみなさんにとって
身近な出来事として考え参加することのできる
コミュニティとしてのソフトやハードを考えています

自分が生きた証を有意義なものにするためにも
少しだけ暇を創って
マフィーのプランに参加してください

誰にでも一つや二つは得意技や知恵があるものです
それをぜひマフィーで役立ててください

ひとりだけではなく
みんなと楽しく協力し合って実現する夢も
なかなかいいものですよ。

お問い合わせ・お申し出はヤマダノンキまでお願いします



2001/1/5  
 マフィー代表ヤマダノンキ


地球を支える一本の樹

私の庭には一本の名もない樹があります

悩みごとや困ったことを解決したいとき
私はその樹と静かに対話をします

葉っぱの色、幹の肌ざわり
枝のざわめきや土の香り
それらを通して
私にはいろいろな樹の声が聞こえてきます


「この地球がいろいろな生命たちの支え合いで生きていること」
「人間も支え合う生命のひとつだということ」
「私もこの樹と共に地球につながっているということ」など…

私はこの樹と対話したあと
いつも生きる勇気が湧いてきます
そして私もこの樹のように
作品を通して少しでも地球を支えられたらと思います

みなさんのまわりにある樹の声が聞こえますか?
そして
「地球を支える一本の樹」の声に
静かに耳を澄ませて対話してみてくださいね


2001・5・1

二村 柚夕子

● よろしければご感想をお書きください




地球を支える一本の樹


 芸術が果たし得るその役割のために微力ながら貢献したいと、非営利で活動してきた「のん木ギャラリー」も、一応その役割を終え、近々、活動の場を静かな森の中へ移す予定である。
参加して下さった数十名の作者たちには、心からのお礼とかれらの提案に改めて敬意を表したい。
ギャラリーの活動を通して「芸術とは何か」、「芸術が社会に果たし得る役割とは何か」ということを追求してきたが、その中ではっきりしたことがある。
それは鑑賞者の方がよく口にする、「この作品の意味がよくわからない」という態度表明を、私はギャラリーを始める前は鑑賞者の側の問題だと思っていたのだが、実は、送り手側の問題であったという発見である。

というのも、のん木ギャラリーでは、作者に対して制作におけるコンセプトを文章化することを義務付け、作品にタイトルを付すことを条件にしてきたのであるが、その結果、鑑賞者たちの反応は明らかに深化したのである。
作品に対する理解が深まったばかりだけではなく、作者の存在性にも興味を示したのである。自戒の意も込めて、従来の、美術館やギャラリーに多くみられる「観てくださればわかりますよ」という、高慢な態度を排除してきたのである。
私には、「芸術が哲学表現のシステムとして機能しなければ、一体何のための芸術であろうか」という思いが強かったのだが、その実践への糸口を発見できた喜びは大きい。
芸術の本質である「真・善・美の研究と提案」に対し、感覚で受け止める「美」だけを特化して提示しても、作者の哲学は見えてこないのであった。
民族、宗教、イデオロギーを越えて、人間に共通の、また地球に存在する生命たちに共通の哲学を志向せずして、芸術の存在意義はあるのだろうかと。
私は、のん木ギャラリーの活動を通して参加された多くの作者たちから、それらを学んだ。
さて、今回ギャラリー最後の個展を開催するのは、当初より多大な協力をしてくださった二村さんである。
彼女は一貫して自然の側に立ちつづけ、かれらの人間に向けたメッセージを創作を通して提案し続けている作家である。彼女の創作の核は、人間とそれ以外の自然の生きものたちに共通するであろう、ひとつの共通の存在意義を探る、つまりグローバルな哲学の追求である。
すなわち、この地球上に産まれた生命は、動植物であろうと、水や土であろうと、また生命を終えた枯れ木であろうと、もちろん人間であろうと、
その存在に無意味なものはないという考えである。
一見、あたりまえに思えるこの考えも、人間にとってはそうではなかったという事実を歴史が証明している。現在の地球環境や世界情勢を見れば明らかであるが、それも、芸術が本来の役割を果たしてこなかったことが大きな要因かもしれないと私は思う。
しかし、二村さんのような作者が出現してきたことはうれしい限りである。

周りの現実を見渡してみても、自らの存在意義を見出せないまま、精神が病んでいる人びとの何と多いことか。また、自分が何者かもわからないまま、他者を排斥し、自分のことで精一杯だとばかりに、身勝手な欲望を貪る人びとの何と多いことか。
それもこれも、人間として産み落とされた意味を考えようとしてこなかった結果であろう。
一体、私たちは自らの存在意義を何によって発見したらよいのだろうか。宗教やイデオロギーをもってしても、その糸口を見出すことが、とても困難な社会状況であることは事実だが、「哲学表現としての芸術」の存在が民族や宗教・政治という属性を越えて、その発見へのきっかけになることは間違いないと私は確信する。
なぜなら「哲学表現としての芸術」は、鑑賞者に「人間として生きる意思決定」を促すからである。
二村さんの提案する「一本の樹」の存在は実に意義があると思う。
タイトルを額面どおりに受け止めてはならない。これは私たちへの彼女からの問いかけと提案なのである。
「一本の樹」とは何の存在のことなのか、地球を支えるという自意識はどういうことなのか、作品を前にして私たち自らが問われているのである。
地球上のたった一本の樹が欠けても、地球は傷みを伴なうという認識への提案なのである。
つまり、自然現象には一つも無駄がないように、自然の循環には摂理があるように、私たち人間一人ひとりにも地球の一員としての存在意義が必ずあるのだということを自覚した、人間としての呼びかけなのである。

「地球を支える一本の樹」とは、実は私やあなたがた一人ひとりのことなのであると思う。
地球に「生かされている意味」を考え、「人間として生きる」という意思決定を自らに問う機会としたい。 (評:ヤマダ)


のん木ギャラリーは「哲学舎という名の美術館」として生まれ変わります。   ヤマダノンキ